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礼拝から受けたこと 〜甲府支部

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外側の声ではなく、自分の中におられる神様の声に従って動いていく必要があると言うことを、今回の礼拝で学んだ。それこそ本物だと。 外からの刺激や、 指示を受けて動くのはまだまだ甘えている証拠。 もっともっと神様につながっていたい。 (M) “感じる”いうことに頼ってはいけないと言うことを学んで、いままでそのワードをよく使っていたことに気がついた。そうではなく、信仰の上に立って神様を信じて行きたい。 待っていると与えられる。 待つこと大切さを学んだ。 待てない人が多い、それは肉の計画によるものということを学び、 確かに、いままで待てずに肉に頼ってしまうことがあった。 下(環境)を見ず、空(神様)をみるということをやっていきたい。 急がされるということで、聖霊の力というのは内側から押し出されるが、実際に行うのは私たち信者だということを学んで、素直に、従って行っていきます。 (Y) メッセージの前の宣言の際、自分が本当に神様を見ているかということを問われた時、パスターのリードに頼り切っていることに気がついた。また祈りや宣言の時だけでなく、いつだって環境をみるのだけではなく、神様のことを見つめていたいと思った。 黙っていてはならない。と言う箇所と、 “私の民”というみことばに励まされた。 いまはノンクリスチャンの方も神様の計画の中では、わたしの民だと見てくださっているんだ。神様のことを知っている私たちが黙っているわけにはいかない。黙っていないで、神様の言葉を伝えていくということをやっていきます。 (A) (甲府支部、婦人)

東京支部 大人のためのCSから

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YKさん:律法は人を死に追いやるが、御霊は自由を与えてくださる!御霊の実は、自由と喜びが伴う事,本当に感謝だと思いました。(ガラテヤ5章22〜23節) HKさん:アハブ王、サウル王、ヨシア王、アナニアとサッピラ、全ての人が、良くない事をしているとわかっている。良心があるから、良くないと知りながら、隠す行為をすると言うパスターの、言葉は、本当にそうだなぁと思った。生まれる前から、霊が与えられ、唯一無二にの存在として、一人一人を、形造ってくださっていると言う真理に、驚かされ、感謝。 生まれてくる時は、神様の事が分かるよう正しい位置に、霊と魂が、ヌースによって繋がっていて、命の書に名が記されている、この世に生まれ出て、ヌースが、この世を支配しているサタンによって、汚れて、神様、自分の創造主さえ分からなくなって行く恐ろしさを見る。日々、感謝して、みことばを、自分のものにしていきたい。  YUさん:真理を学ぶ大切さを知りました。真理を知ることができるからこそ、自由を知ることができ、愛し合うことができることができると感じています。常に霊が生きていることを実感し、神様に感謝して、日々過ごしていきたいと思います  HKさん:木曜に読んだ説教サマリと金曜の収穫者会に続き、今日のCS礼拝からも、「真理が私を自由にする」ということを学んだ。今、神様が私に語りかけてくださっている御言葉。まだまだ解放されていない魂の部分(部屋)があるので、御言葉の光を入れて、もっと自由になって神様の御心を行なっていきたい。 (東京礼拝所)

賛美は汚れた心のワクチン

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ロサンゼルス日時 1月24日ライブ参加からの学びです。神殿をきよめるために、まず祭司たちのきよめ という点で、引かれた聖書の様々な箇所によって、自分が、きよい生ける石であり、それを積み重ねる祭司であり、また賛美のいけにえ(自分自身がいけにえ)をささげる者である事を学んだ。それにより、礎石になられた王なる祭司、そして、ご自身を人の罪の為にいけにえとされたイエス様のミニチュアとして造られたことが分かった。 神様の栄光を現わすために、からだを持ってこの世で生きられたイエス様と同じように、私も、からだで神様の栄光を現わす生き方をすべきを、今日も学んだ。 必要なきよさについて、パスターが、コロナにからめたお話をされていたが、 例えば、人混みを避けるというのは、世と交わらないとか、マスクは、自分のためにも、人のためにも、悪い言葉を発しない、ひとつのしるしとした考えたら良いし、一日に何度も手を洗うことも、(律法的にではなく)その動作のたびに、 信者としてのきよさに対する認識アップにつなげれば良いかなと思った。 これならコロナ規制も、喜びを持ってできそうです。 「賛美は、汚れた心のワクチン」ともおっしゃっていましたが、私たちが神様をほめたたえ、みことばをどんどん発して、サタンがばらまくコロナウィルスを終息させる集団=教会となりたい。 (香港支部 婦人)

大人のためのCS 第2列王記14章から

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なぜイスラエルは神様の民として神様から特別に愛され、奇跡を体験したにもかかわらず、今回みたヨナの預言を聞き悔い改めたニネベの人たちのように謙虚になれなかったんだろう。 頑なだったんだろうと思った。  神様からの恵で守られてるということを忘れてしまったのか。  クリスチャンになってから、 神様から祝福も恵もたくさん頂いてる。  でもそれは自分自身がやったからではない。  それを忘れないでいようと思った。  神様無しでは生きることはできない。 人の力では無理だ。 (婦人)

東京支部 教会学校、教材の学びから

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聖書箇所:II列王記 10:12-27   今日もたくさんの真理を学んだ中で、バアル(偶像)の信者に与えられた「祭服」のことが一番印象に残った。新しくイスラエルの王になったエフーとレカブ人ヨナダブが手を組み、偶像礼拝をイスラエルの国から撲滅するために、バアルの集会を催す装いをして信者を呼び集め、剣で打ち殺した話。その時に、バアルの信者の目印になったのが、身に付けた「祭服」だった。その「祭服」を着ていたかどうかが、生死の分かれ目になった。  これに似た話で、新約聖書のマタイによる福音書22章では、礼服を “身に付けていない” 人が裁かれた。 私たちからすると、服装は体の外側に身に付けるもので、人から一番よく目に付くもの。同じように、聖書に書かれている「服装」とは、神様から人間を見たときに一番よく目に付く「心の中」のことを指していることがわかった。普段の生活では人から見られているのは外側だけだから、なかなか自分の内側に意識が行かないけれど、神様の前では心の中の動機や汚れが丸見えで、隠し通せることは何一つない。その心に「何を着ているか?」が、自分の魂の生死の分かれ目だとしたら、普段からどんなに注意して生きていかなければならないだろう。しかも、すでにその心が罪や汚れでいっぱいだったら..?   そのあと、ゼカリヤ3章より、私と同じように「汚れた服」を着ていた大祭司ヨシュアの話が読まれた。ヨシュアは、汚れた服を着て主の御前に立っていて、その右手に彼を訴えようとして立っているサタンがいる。「もう服(心)は汚れてしまっているのは、神様の目からも明らかで、しかもサタンが証人として自分を訴え出ている、、絶体絶命、、!」その時に神様(のみ使い)は、「彼の汚れた服を脱がせよ」と命じ、「見よ。わたしは、あたなの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう」と宣言された。  これが、イエス・キリストがわたしのためにしてくださったことだ、、ということがわかった。私の罪の身代わりに十字架にかかり、その血潮でわたしの心を洗ってくれた。 「あなたは、これからは新しい服を着なさい」と、イエス様が新しい祭司服を差し出し、わたしに与えてくれたことが、どれだけの恵みなのかわかった。これからは「新しい服」を着て人生を歩み、わたしを訴え出るサタンに対しては、イエス様の十字架によってわたしが不義とされた...

第二歴代誌6章の学びから

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旧約時代の歴史を通してみて、 神様は王様、そして民が自分達が犯し続けている罪から悔い改める事ができるように奇跡、そして裁きをおこしながら何度もチャンスを与えていることが今回の礼拝で分かった。 それは人間達が神様の恵みの中で生きることができるようにするためだった。 私も示された事を日々受け止めながら、清められていきたい。 そして他者の為には、やはり正直に語る事が私にできることだな。と思った。 麻痺している良心も、言葉によって清められ神様の心を思い出す。 それを行っていきたい。 (婦人)

仲間の学びリポート

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第二列王記5章 〜将軍ナアマンの癒しの奇跡から学んだこと〜 ナアマンの、預言者のことばに対する信仰についての話。 私自身最近肩を痛めて、手術も検討に入れてリハビリする必要があるといわれ、もし手術になったらどうしよう、ちゃんと回復するのか、仕事はどうなるのかなど思い悩み、苦しんでいた。 神様への祈りも「助けて下さい、どうしたらいいですか」という内容になっていた。 でもあるとき自分にはたくさんのみことばが与えられていることに気づき、苦しみを手放すことができた。(詩篇91篇、箴言4:20-23など) ことばへの信仰がないと神様も恵みを与えようがないことを実感した。 (婦人1) ナアマンの話から、また新たな真理を学びました。 特にII列王記5:9「家の入口、戸」については、天幕や神殿の入り口と同様(出エジプト33:7-11、1サムエル1:9-11)に、「戸は、神様と出会う場所(霊の世界の入口)」であることを知り、目には見えないけれど、戸という接点を通じて、神様と交わりを持てることがわかりました。 ちょうど同じ部屋の中にいても、神様の臨在が変わるのは、それが理由なんだな思いました。 神様の臨在があると、普段読む聖書の御言葉もスッと心の中に入ってくるし、祈っていても「聞かれた!」という確信が来ます。 変わることがない神様のことば(=聖書)に対し、私自身が真剣に神様を求める心、悔い改めへりくだった心を持つことで、将軍ナアマンが家の入口に立った時に神のことばが語られたのと同じく、戸を通じて、もっと神様との交わりを持っていきたいと思いました。 (婦人2)

第二列王記4章31節「その時にはもう、かまの中には悪い物はなくなっていた。」

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「かま」は教会(神の国)であり、「悪い物」は毒(死、悪い言葉)。飢饉が起こり、預言者たちはなんだかわからないうりを見つけて料理して食べようとしたらそれは毒だった。神の国の住人でも、世の中から教会へ気づかないで毒を運んでくることがある。また、心のページに書かれていることが行動として現れ、それが悪い物であれば毒を撒いてしまうということを学んだ。 これからは礼拝の前日には自分をよくチェックして悪い言葉を出し、「明日は心のページの空いたところにみことばを書いていただくんだ」という心で礼拝当日に備えることをしたいと思った。また、心のページを整えて礼拝に参加し自分が毒を撒かないことが、先週のメッセージで聞いた互いに愛し合うことにつながるのだと思った。聖別して礼拝へ行く理由が一つ具体的にわかってよかった。(婦人)

東京支部:聖日礼拝後のシェア

(大人のための CS )(聖日礼拝)(混合) 2 つのメッセージを通して学んだことは、神様が私たちに恵みを与えて下さるのは、私たちを愛してくださっているからだけでなく、恵みを受けた者が周囲にその恵みを分け与えていくという期待があってのこと。恵みを受けるだけで満足してしまうと、いずれ祝福を失ってしまう。行いを伴う信仰が自信へとつながり、それがシュネムの女のようなガッツある信仰、強い確信となることが霊的成長なのだとわかった。クリスチャンらしい品性、行いを以って、自分にできることをやっていきたい。 (婦人) (収穫者会) : ヨラムの「主がこの3人の王を召されたのは・・」という言葉が、神様を遊びで考えていることばだと分かることを学んだ。人生を真剣に生きていないで、自分のその時の満足を求めている偽りの姿、言葉遣いを改めて知って、自分もそうやって話している時がないかチェックした。 (大人のための CS ) : シュネムの女が、ただ心で神様しかできないと信じて、シャローム、としか言わなかったこと。心に信じていることで行動することが、真理に生きる生き方だと分かった。 (聖日礼拝) 愛し合うことの行動をすることを改めて学んだ。土曜日のメッセージを思い出しながら、子供に「心からする」ことを教える必要はない、と思わされた。子供は真理に生きている。真理に生きるとは、霊によって生きることだと分かった。 (婦人) (聖日礼拝) 今日のメッセージでたくさんのことが話され、たくさん神様から受け取ることできた。最初は、 2 列王記 3 章 14 節 今週の暗唱聖句の意味が全然理解できなかったが、   パスターの説明がわかりやすくて、あとでわかった。特に、『恵は罪よりさらにでかいもの』、また『頭だけでの真理だと、意味がない』という二つの事については、   前も知っていたが、改めて行動することの重要性が今日わかった。 (男性) (聖日礼拝) 罪の影響により、子孫の4代まで神様がさばき与えるのに対し、恵は1000代及ぶという違い、かなり大きですね。 今日、地質学な説明で、石筍のことを使って、その恵の意味が説明されたのが、とてもわかりやすかったです。 (婦人) (聖書研究) 改めて、礼拝の日の自分と、他の日の自分...

東京支部:聖日礼拝後のシェア No.2

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(聖日礼拝)神のことばは真理であり愛である。偽りがないということが、すなわち愛し合うということ。困ってる人を助けるなど、広い意味での愛。愛がないと真理に立っていないということもわかった。 (男性) (聖日礼拝)知恵がない、愚か、ということは問題ではなく、偽りが問題。謙虚であれば良い。 (大人のためのCS)土曜も冒頭で同じことを言っていた。弱さを認めた人がクリスチャン。ただ、謙虚とバカは違う。何もできないこととは違う。自分の弱さを認めた後に、神様の知恵によって、聡く生きるという次のステップがあるのだと思った。 (男性) (聖日礼拝) 伝道する上で、この世の人には良心があるが、神様に対して罪を犯しているという意識がないので、悔い改めに繋がらないということがわかった。イスラエルの罪は70年かかって悔い改めた。一般の人に伝道していく上で、まずは自分自身がわかっていないといけない。原罪については、罪を犯すものとして生まれついているというのが、間違った考えだということを学んだ。イエス様もアダムの子孫。個々人として、自分の行いによって、神様に対して罪を犯す。また遜ることも重要。アモス書の「主の御言葉の飢饉」が心にきた。御言葉を心に置くことが大切。恵みと真はコインの裏表。恵みをとると、真が来る。最後に、自分はヨシャパテになる必要があることを学んだ。 (婦人) (エゼキエル書の学び)エゼキエル8章の学びから、シャファンの家系(神様に熱心に仕えてきたはずの家系)が、家の中で偶像礼拝をしていた、偽善者だった。原因は、内側におられる神様との交わりがない、ということ。心の割礼を受ける必要がある(ヌースの覆いを取り除く)というのが印象に残った。 (収穫者会)1コリントから、その時コリントの教会に起きていた問題が高ぶり。そして偽善だということを学んだ。聖書の御言葉は、神様が啓示して下さらなければ理解することができない、聖霊の助けが必要。 (大人のためのCS)「預言者のともがら」が、実はオバデヤのことで、彼はもともとアハブ王に仕える者だったが、(全てを捨てて)預言者になったということを聞いた。ちょうど、世の中の仕事をする虚しさを感じていたので、私も神様の仕事をする者に変えられていくことを目指したいと思った。 (聖日礼拝)今週は総じて「偽善」について教えられた。II...

東京支部:聖日礼拝後のシェア No.1

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(大人のためのCS)第二列王記4章より、オバデヤの義により、他の人々が救われたことを学んだ。私が他の人に油を広めることで、他の人が「油の器」となることができるとわかった。 (聖日礼拝)第二列王記の3章より、私はヨラムだということがわかった。旧約聖書には沢山の不信仰による酷い行いが書かれていて、自分とは関係ないように思っていた。けれど、今回は自分をヨラムとして見ることで、新しい聖書の読み方をした。 (婦人) (収穫者会)第二列王記の3章からのメッセージだった。ソドムとゴモラの例について書かれている。ロトは真剣に自分の生き方を変えなかったので、神様の恵から漏れ、後の歴史に問題を起こした。 (大人のためのCS)収穫者会のメッセージと繋がり、謙虚に受け止めた。まさみ先生(牧師婦人)からも沢山助けてもらった。自分のことを考える心をなくすべき。 (婦人) (収穫者会)これまでまだ、この世の知恵を求める傾向があった。聖書には、私たちは「キリストの心」が与えられていると書いてある。このことばの意味がもっと良くわかりました。 (大人のためのCS)私たちには聖霊が与えられている。従順な器として、聖霊の導きに従うべき。 (聖日礼拝)ローマ5章より、なぜ律法が与えられたのかが、とてもクリアになった。 (婦人) (収穫者会)1コリントから当てはまることがあって、それは自分がクリスチャンとして、信じていることに対して、世から笑われる者だということを忘れていた。ちょうど今週あった出来事で、公園に10才くらいの子供たちがいて、彼らにイエス様と天国のことを少し話したら、その子供たちからは、笑って「あり得ない。ただの宗教だ」と言われたばかりだった。 (大人のためのCS)神のことばが与えられる(聖書または神の器を通して)時、ほとんどの場合が私の考えとは違うことで、何度もショックを受けたことがある。けれど、それは(私にとって)良いテスト。 (聖日礼拝)正直、「原罪」について何が間違った教えなのかクリアではなかった。けれど、今日のメッセージから、とても良く理解することができて、自分の信じることも変わった。 (男性)

名古屋支部:大人のためのCS

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やもめになってしまったオバデヤの妻の話から、神様の為につかえている人は 神様が絶対に養ってくださるという信仰、ガッツが来ることを改めて学んだ。 以前の礼拝で、献金をしている人も、神様が絶対に返してくれるというガッツが 自然と湧いてくると教えてもらったことを思い出し、聖書に書かれていることを 行うとガッツにつながることを改めて学んだ。 (男性) 礼拝で油を求めていかないと、止まってしまう事、 それは“自分はもう十分にある”という高ぶりと怠慢的な考えが そういう態度に現れる事を学んだ。 神様が与えてくださった賜物もその一つだと思った。 十分だとは考えた事はなかったが、 いい加減に考えて、磨こうとしてこなかった 所があったので、その点は反省だった。 一つ一つ楽しみながら磨いていき、もっともっと神様の油注ぎを受けたい。  (婦人)