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大人のためのCS 第2列王記14章から

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なぜイスラエルは神様の民として神様から特別に愛され、奇跡を体験したにもかかわらず、今回みたヨナの預言を聞き悔い改めたニネベの人たちのように謙虚になれなかったんだろう。 頑なだったんだろうと思った。  神様からの恵で守られてるということを忘れてしまったのか。  クリスチャンになってから、 神様から祝福も恵もたくさん頂いてる。  でもそれは自分自身がやったからではない。  それを忘れないでいようと思った。  神様無しでは生きることはできない。 人の力では無理だ。 (婦人)

福岡支部トラクト配り 神の国の働きをした後は・・・

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参加 ラケル、ヨセフ、レビ、婦人A、婦人B 場所 にしてつ平尾駅 時間 11:15-11:45 配布数 週報34枚 トラクト95枚 礼拝所に集まり祈ってから出発しました。  ヨセフとラケルは改札の真ん前に立って出てくる人に配っていました。 レビはあちらこちら動きながら勢いよく配り、私と婦人Bさんは改札の前の道で配りました。  レビが渡したおばさんから、これなに?と聞かれていました。教会と答えると、はーいと言って去っていました。  信号を待ちながら、トラクトの裏表を立ち止まって読んでる人たちがいました。  礼拝所に戻ってから、レビはやっぱり楽しい、レビはたくさん配った!と言っていました。  感謝の祈りをして終わりました。  婦人Bさんは仕事のためすぐに帰りましたが子どもたちはラーメンを食べて帰りました。 今日はチキンラーメンと、とんこつラーメンを食べました(写真あり。袋ラーメンでいろいろな種類があるのでローテーションで食べています)。 (福岡礼拝所・婦人A)

10月23日_収穫者会の学びより「(キリストは)自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に追われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなた方は、癒されたのです。あなた方は、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。(1ペテロ2:24-25)」

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今日は、旧約聖書 第一列王記22章から、最近のメッセージシリーズ「実践的クリスチャン生活」でも学んでいる「偽りの霊 vs 真理の霊」の違いについて学びました。 聖書に書かれている「偽りの霊」については、クリスチャンではなくても全ての人間が「良心」を持っていて、その「良心」の目からして、それが「偽り」なのか「真理」なのかを見抜き、心の奥底では何が真理かを知っている、というところが、とても興味深かったです。 子供の頃、大人同士がお世辞を言い合う場面を見る度に「どうして大人たちは、お互いに騙しあって、喜んでいるんだろう」と率直に疑問だったけれど、大人になって気が付いたら自分もそうなっていて、いかにこの世の中が「偽りの霊」で満たされているか、ということがよくわかります。 1列王記22章に出てくるイスラエルの王アハブも、預言者ミカヤから伝えられた神のことばが「真実」であることがわかっていたのに、「偽り」を選んでしまった。しかも、善悪を判断した結果、神様の御心ではない「偽り」を結果的に自ら取ってしまう様子が、創世記2章でアダムとエバが蛇(偽りの霊)に誘惑されて「善悪の知識の木から取って食べて、死ぬ」という罪の結果になってしまったことと重なることも学びました。 これを自分に当てはめた時に、同じように、心の底では真理を知っていながら、世と妥協して周りに合わせたり、楽な道を取ったり、自分の目にとって良い方を選び、心に平安がないまま普段の生活を歩んでいることが多いことに気付きました。神の子であるイエス様が人間になりこの地上にきてくださったのは、まさにこの「偽りの霊」に騙されてさまよう羊たち(私たち)を「真理の霊」に導いてくださるためであったことがわかりました。 「(キリストは)自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に追われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなた方は、癒されたのです。あなた方は、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。(1ペテロ2:24,25)」 アーメン!! 信じる者の上に実現すると神様が約束してくださった、この聖書の御言葉の上に立って、明日も感謝して過ごしていきます。 (東京礼拝所・婦人)

今週(10/18)のみことばカード「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じ ように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。(1 コリント 2:11)」

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わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めます。

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「わたしは、自分からは何事も行うことができません。ただ聞くとおりにさばくのです。そして、わたしのさばきは正しいのです。わたし自身の望むことを求めず、わたしを遣わした方のみこころを求めるからです(ヨハネ5:30)。」 イエス様自身の望むことを求めず、私を遣わした方のみこころを求めるとイエス様が仰られたところで、そのためにイエス様が人間としてこの地上にこられ模範を示してくださった事を知りました。まだ自分の考えで動いてしまったり、何が神様の御心なのか判断に迷ったり、解らなかったりします。福音書を読み、神様に教えて頂きたいと思いました。 (婦人)

“神様とのコミュニケーション” 聖日礼拝からのシェア

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今週の日曜礼拝で、神様の御心を知ること・追い求めることの大切さについて学びました。神様とのコミュニケーションというのはただ自分が守られるように祈るだけのではなく、自分の人生に神様がどんなことをなさりたいかを聞いていくことだと分かりました。確かに、神様の御心ではなく、自分のことばかり考えることが多いなあと気づきました。神様ごめんなさい! これからもっと神様の御心を追い求め、従って行く者になりたいです。神様に委ねます。 福岡の姉妹にも学んだことをシェアしました。「イエス様が自分のためにご自分の命を捧げてくださったことを知ると、自分の祝福ばかり考えなくなるんでしょうね。パリサイ人みたいに、ただ「主よ、主よ」を言うだけでは天国に入らないから、神様の御心を真剣に考えて生きること大事。そうは言いても、人間はやろうとしてもできない。ペテロたちもイエス様のために死にますよと言いたにもかかわらず、イエス様が祈りなさいと言われた時に寝てしまいました。でも、ガラテヤ5:24に書いてあるように、古い自分が新しくなるためにイエス様はすでに十字架にかかったから、今は霊によって歩むことが可能になりました。霊によって歩もう!」と彼女の学んだことを私にシェアしてくれました。 確かに、礼拝でローマ12章も読んで、同じことが書いてありました。新しくなるためには、古い自分を捧げなければならないということでした。古い自分が死ねば、イエス様と共に蘇るのだからです。パウロも確かにこのプロセス(死んで・蘇って・新しくされた)を経験したからこそこの手紙を書いたでしょうね。これからもっと神様の御心を追い求める者になっていきます。 (広島大学礼拝所・婦人)

“「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです”  〜聖日礼拝からの学び〜

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20201004 聖日礼拝 実践的クリスチャン生活 No.8 わたしに向かって、「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。(マタイ7:21) 今日のメッセージで、この「主よ、主よ!」という偽りの叫びを実際にイエス様が何度も体験されていたことがわかった。ペテロが「主よ!神の御恵みがありますように。そんなことが(イエス様が殺されるなんて)、あたなに起こるはずがありません!」と、イエス様が人類の罪の身代わりとして十字架にかかろうとなされているのに対し、自己都合の考え(イエス様に死なれては困る。自分のポジションがなくなる)でそれを否定した場面。また、金持ちの役人が「尊い先生!」とイエス様に教えを乞うふりをして、実はイエス様に自分の善行を認めてもらおうとした話。また奇跡によって5千人にパンをイエス様が与えたあと、「先生!」と呼んでついてきた群衆が、実は神様を求めていたのではなく、「腹を満たしたかった」だけで、イエス様を自分たちのために利用とした話。 世の中はサタンの「偽りの霊」で溢れかえっていて、その中で生きているとむしろ何が本物で何が偽物なのか?がわからなくなり、なぜ自分はイエス様に褒められると思ってたのに叱られてしまうのか、、(実際に教会の中で、牧師先生たちに褒められると期待してやったことが、逆に叱られたことが過去たくさんあった。良かれと思ってやったことが、サタンに攻撃の機会を与える結果になった)良心が鈍ってしまう。「良い実を結ぶには、実だけ変えようとしてもダメ。まずは、良い木にならないと。良い木の遺伝子が、心のヌース(良心)だ」と牧師先生から教えてもらい、改めてまずは「自分の良心を聖める(神様に聖めていただく)」ことからスタートすべきだ、という事がわかった。 ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。(ヤコブ1:21,22) 自分の良心を聖めるために、まずは聖書のみことばを素直に受け入れ、示された汚れや悪を捨て去り、みことばを実行する人になることが必要。毎日の生活の中で、聖霊様の助けを求めて

イエス様を心に受け入れ、新しい霊を与えられ

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  エゼキエル書 11章 先週と同じく、エゼキエル書の11章から、また深い聖書の真理を学んだ。今日改めて感動したのは、愛なる神様の “憐み深さ” と、その “計画の偉大さ” について。多くの預言者を通して何度も偶像礼拝からの悔い改めについて、また、悔い改めなかった時の裁きとしてのイスラエルの国の崩壊について、ずっと警告されて来たにも関わらず、心が固く悔い改めることができなかった民。町は焼かれ、主の箱が安置されていたエルサレムの神殿が破壊された。多くの民がバビロンに捕囚として連れて行かれ、国を失い、神殿も失い、神の選民としてのアイデンティティーも失いかけている中で、神様が用意されていた次の計画はこうだった: 「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなた方のうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える(エゼ 11:19)」 神様から与えられた律法を守ることができず、敵国に滅ぼされ、神殿から契約の箱が取り去られたが、その出来事こそが神様の人類に昔から計画していた、”律法の廃棄” と “イエス・キリストの現れの予兆” であったことを知り、感動した。多くの偶像の神々の中で、ヤウェこそが「一つ(ひとり)の神」で、その神様が私たちに「一つの」心を与えてくださり、新しい霊をキリストを通して与え、心から喜びが湧き上がる人生を与えてくれた。古い律法(石の心、契約の箱)は取り去られ、イエス様が私たちの心の中に住んでくださるようになった。 エゼキエルが見た幻は、エルサレムの神殿から去られた神様の臨在が、なんと、バビロン捕囚の民と共にいたという霊の世界の現実。そして、後にエルサレムに帰還したユダヤ人が建設した第二の神殿(もはや、契約の箱はない)が、以前のソロモンが建てた神殿(契約の箱が安置されていた)よりも栄光が大きい(ハガイ2:9)という事実についても解き明かしがされ、それがまさに今の私たちがイエス様を心に受け入れ、新しい霊を与えられた状態なのだということがわかり、心に喜びが湧いてきた。律法によって救われることがなかった私が、神様の一方的な恵みによって罪が赦され救われたという霊の世界の現実に感謝し、これからも喜びに満たされて歩んでいきたい。 (東京礼拝所・婦人)

キリストにあって新しく生まれ変わったのだ

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  先週に引き続き、アブラハムとロトの生き方の違いから、「神の御心を取る人生」と「自分の欲望を取る人生」の違いについて学んだ。前回も、どうやっても神様の御心を選ぶことができない「ロトの性質」を自分にも当てはめてみたが、今日のメッセージではより具体的にその生き方の違いについて話されたので、ロトの悪かったところについて改めて考えて見た。 ・ロトは、アブラハムと一緒にいたおかげで、神様の祝福を受けていたのに、そのことに気づいていなかった。 ・アブラハムから先に土地を選ぶように言われた時、ここぞとばかりに見た目が良く潤った町(実際は、悪が蔓延り、人々の良心が麻痺していた町だった)を選んだ ・アブラハムが自分としもべ達のいのちをかけてロトを救ってくれたのに、アブラハムに感謝もしなかった ・悪で満ちたソドムの町に住みながら、悪に対する怒りや嘆きがない。染まっている。 ・神様の憐み(アブラハムの祈り)によってソドムの滅びからかろうじて救われたのに、それが自分が神の目にかなった人だからと考え、かつ山に逃げるように言われてそれを拒否した ・彼の妻は後ろ(昔の生活を惜しんで)を振り返り、塩の柱になってしまった。 これを自分に当てはめると、 ・事実、ダヴァール教会に来てから、神様からたくさんの祝福を受けた。それなのに、祝福の理由が、自分の信仰や行いの結果だと勘違いしている。 ・神様の御心を取らず(聞くこともせず)、楽で楽しそうな道を取る。自分のやりたいことを優先させる。 ・牧師家族が多くの犠牲を払い、自分を愛し導いてきてくれたことに対し、感謝がない ・世の中の悪を受け入れ、妥協して、染まって生きている ・ことあるたびに高ぶり(自分のために祈ってくれてる人がいることを忘れて)、せっかく悪い行いから救われたのに、また自分の好き勝手な道を選んでしまう ・昔の生活を振り返り、その頃に戻りたいと考える(どれだけ自分が汚れて問題を持っていたかを忘れ、神様の救いを感謝しない) 神様はロトに何度も悔い改めるチャンスを与えていたことが、今日のメッセージからわかった。それでもロトは、そのチャンスを生かすことができず、自分の生き方を変えることなく死んでいった。神様の目からして、誰であっても、一人として、そのように滅びることは望んでおられない。なんとかしてロトが御心が取れるように導こうとする神様の愛が、ひ

神様からの感動、喜び

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  良い木になることが一番大事だと学びました。マタイ7:16、実から人の本当の品質が見えます。悪い木であれば、良い実を結ぼうとしてもできません。良い実を結ぶにはまず良い木にならなければならないということ学びました。神様のために生きるには、「実」だけに注目するのではなく、自分はどいう「木」であるのかをまず知らなければならないということを考えさせられました。この謙遜さによって神様は自分が良い木に育つように導いてくれるので、まずは謙遜になって神様に導きを求めて行くことが大事だと分かりました。 今日も福岡の姉妹とスカイプでシェアしました。彼女も最近の礼拝で「喜び」が捧げ物になって行くということを学びました。福岡礼拝所もこれから捧げて行く人たちが集まる礼拝所になっていきたいとシェアしました。 初めてだヴァール福岡に来た時を思い出しました。日本語がまだちょっとしか話せなかった私でも、やはり教会の皆さんの喜びを見て、私も喜びに満たされ、なにか奉仕しようという願いが出てきました。そこから、子供たちのシッターとしてお手伝いし、子供達と遊ぶことが大喜びになりました。 神様に対する感動・喜びは本当の捧げ物だということは確かに分かりました。 (広島礼拝所・婦人)