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神様のみ 9/1エゼキエル書の学びから

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  神様のみから学ぶ。神様のみから頂く。 神様のみ求める。 この“のみ“という言葉が心に残った。 この“のみ“が出来ていないとき、 まだ他に望みがあると思っていた時、 私はふらふらしてなぁと思う。 そしていつも不安がつきまとっていた。 “のみ“ができたとき、安息の中に入れられる。 私はそうやって生きていきたい。 (甲府支部、婦人)

聖書の学びから~甲府礼拝所~

神様は願ってくることを望んでおられるということを礼拝で学んで、あ、私また忘れていたということに気がついた。 神様に委ねることを忘れて、つい自分でやろうとしてしまう時が時々ある。 また神様が一番人間達に求めて欲しいものは知恵(真理)だということも知った。 私は知恵をずっと求めているが、そのために勉強したり、人に習ったりしても身にならないことが多い。 それすらも自分の力でやろうと手を伸ばしてとろうとしてはいけないんだということも知った。 神様が与えてくださるという信仰の上に立って、神様によって成長させていただきたい。 婦人

“目の前に偶像があるから神様が働けない” (エゼキエル書の学び2)

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目の前に偶像があるから神様が働けない。 それを取り除くことを神様は願っているということを学んで、今の時代でいうと、偶像とは世的さ。のことで、取り除くべきことがまだまだあるのではないかと改めて礼拝中考えた。 世の中に出ているとそれはいつのまにか染み付いてきて、でもこうやって礼拝の中で神様から示されみことばによって守られていくことが感謝だと改めて思った。 今週ダビデ(飼っているイモリ)が水槽から脱走した。これで2回目。このままだと干からびちゃうと探したら、棚の裏から埃まみれででてきた。 神様もこうやって神の国に入っているクリスチャンが世にでて汚れても、 いつでも見張って神の国に連れもどそうとしてくれてるのかななんて思った。その心を思うと汚れちゃいけんって本気で思う。 (甲府礼拝所・婦人)

“心の内側の一つ一つの想い”(エゼキエル書の学び)

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エゼキエル14章「心に偶像を秘めている」という箇所が印象的だった。自分の心の中で考えてることは、誰も気づかないし、表側だけしか見てない。「だから、大丈夫」クリスチャンになってからも、暫くこういう考えがあった。神様が心の内側の一つ一つの想い、考えを、全部お見通しであることは、実際の体験から学んでいった。心の中に汚れがあると、神様に祈りが聞かれない。神様が、その願いを叶えたくても、聞くことができない、霊の法則。そして、サタン(悪魔)の思いのままにされていた。自分にとって、「心の中の偶像」とは何だろう。人に見せるためにやった偽善、自分の格好を良く見せるために、本心とは裏腹に語ったことばや行動。静かになって、よくよく考え、悔い改めてから、神様に近づいていきたい。「正直になることが大切」とパスターが最後に語ってくださった。今の自分に良くないところが示されたら、すぐに悔い改めて、ありのままの自分で、イエス様を外側に着て、神様の前に出て行こう。今日も、とても大切な真理を学べて、感謝だった。 (東京礼拝所・婦人)

神様の心を知って、真剣に

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  神様から頂いた言葉を真剣に受け止めて、 それを行うか、行わないかで、 命と死のどちらの結果になるかが決まるんだということを改めて知った。 エゼキエルにイスラエルの今後をビジュアルで見えるように演技させ、神様の心を民達にわかるように見せたにも関わらず、民達はそれを真剣に受け止めようとしなかった。 今回の礼拝で、神様はどんな時も諦めず、 人間が気がつき悔い改め 神様に立ち返られるよう常にあらゆる方法で働かれてることもわかった。 その神様の心を知って、神様の言葉を真剣に受け止めていきたい。 (甲府支部/婦人)

イエス様を心に受け入れ、新しい霊を与えられ

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  エゼキエル書 11章 先週と同じく、エゼキエル書の11章から、また深い聖書の真理を学んだ。今日改めて感動したのは、愛なる神様の “憐み深さ” と、その “計画の偉大さ” について。多くの預言者を通して何度も偶像礼拝からの悔い改めについて、また、悔い改めなかった時の裁きとしてのイスラエルの国の崩壊について、ずっと警告されて来たにも関わらず、心が固く悔い改めることができなかった民。町は焼かれ、主の箱が安置されていたエルサレムの神殿が破壊された。多くの民がバビロンに捕囚として連れて行かれ、国を失い、神殿も失い、神の選民としてのアイデンティティーも失いかけている中で、神様が用意されていた次の計画はこうだった: 「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなた方のうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える(エゼ 11:19)」 神様から与えられた律法を守ることができず、敵国に滅ぼされ、神殿から契約の箱が取り去られたが、その出来事こそが神様の人類に昔から計画していた、”律法の廃棄” と “イエス・キリストの現れの予兆” であったことを知り、感動した。多くの偶像の神々の中で、ヤウェこそが「一つ(ひとり)の神」で、その神様が私たちに「一つの」心を与えてくださり、新しい霊をキリストを通して与え、心から喜びが湧き上がる人生を与えてくれた。古い律法(石の心、契約の箱)は取り去られ、イエス様が私たちの心の中に住んでくださるようになった。 エゼキエルが見た幻は、エルサレムの神殿から去られた神様の臨在が、なんと、バビロン捕囚の民と共にいたという霊の世界の現実。そして、後にエルサレムに帰還したユダヤ人が建設した第二の神殿(もはや、契約の箱はない)が、以前のソロモンが建てた神殿(契約の箱が安置されていた)よりも栄光が大きい(ハガイ2:9)という事実についても解き明かしがされ、それがまさに今の私たちがイエス様を心に受け入れ、新しい霊を与えられた状態なのだということがわかり、心に喜びが湧いてきた。律法によって救われることがなかった私が、神様の一方的な恵みによって罪が赦され救われたという霊の世界の現実に感謝し、これからも喜びに満たされて歩んでいきたい。 (東京礼拝所・婦人)

エゼキエル書の学びより ”新しい歩みができるように変えられて”

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聖書箇所:エゼキエル書11章  『イエス様が十字架にかかり、私たちの罪の身代わりとして死んで、3日目によみがえり、イエス様を心に主として受け入れたクリスチャンたちに「聖霊(霊なる神様)」を送ってくださったことによって、罪が赦された私たちに新しい良心(霊)を与えられ、霊によって歩むことが可能になった。(但し、すべてのクリスチャンが霊によって歩んでいるか?は別の話)』このことは知識としては持っていたけれども、それまで律法に従って歩んでいたユダヤ人にとって、それがどういう意味か?イエス様が律法を終わらせた(完成された)というのがどういう意味か?について、今日のメッセージからさらに深く学ぶことができた。  エゼキエル11章19節「わたしは彼らに一つの心を与える、すなわち、わたしはあなた方のうちに新しい霊を与える」イエス・キリストを通して成されたことが、既に旧約聖書に書かれていることは知っていた。けれどそのあとに、律法の書である申命記にも、そのことが既に預言されていたことを知って驚いた。申命記30章6節「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる」そのような新しい歩みができるように、私達を変えてくださるのは「神様」だということを改めて知った。これまで自分の努力で生きてきて、うまくいかず失敗して、神様を求めてイエス様を受け入れ救われ、そのあとまた自分の努力で律法を守って生きようとする人間の姿を、神様はどれだけ忍耐して見ておられるだろう。  「自分の力では無理です!神様、私を変えてください!」こうやって心を神様に開放して、神様が私の心を変えてくださるように祈ればいいんだ、ということがわかった。メッセージを聞いた後、とても心が軽くなった。自分の肉の力で目標を達成しようとしてる間は、結局自分にはできないことが心のどこかでわかっているから、不安や恐れがある。けれど、神様に委ねて、神様がそれをやってくださるとわかると心に平安と喜びがくる。自分の中にはまだまだ汚れた考えがあるし、神様の清さにはほど遠いけど、神様が自分を変えてくださるから、私は喜んで神様の訓練をこれからも受けていきたい。ハレルヤ!

水曜聖書研究から ~エゼキエル11:1-17より~

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聖書箇所:エゼキエル11:1-17 バビロン捕囚の時代、まだエルサレムに残っていた長老たちについて、エゼキエルが見た幻(その後、本当に起きた出来事)。エゼキエルの身近にいた、尊敬する人々の心の中を、神様が覗き見られていた。そして、そのかたくなな、悔い改めない心のゆえに、神様が裁きを下された。エゼキエルのよく知っている、尊敬していたベナヤの子ペラテヤが死んだ。エゼキエルが驚きショックを受け、神様に叫んだ時、神様はペラテヤの心の中にあった秘密について、エゼキエルに打ち明けられた。彼が心の中で考えていたこと: 「(バビロン捕囚に連れられて行った民は、)主から遠く離れている。(神殿はエルサレムにある)この地は私たちの所有として与えられているのだ(11:15)」 捕囚の民を思いやるどころか、彼らを見下して裁き、しかも自分たちの偶像礼拝の罪については目を瞑り、残されたエルサレムの地を我がものにしようとする態度。しかも、神様の臨在は既に神殿から去られてのに(10:18,19)全く気付きもしない、汚れた生活態度。表向きは良い人だったからこそ、エゼキエルは神様にその人の本心を教えてもらって驚いた。 神様が私の心の中を覗き見られることは、クリスチャンとして生活しながらも、意識していないことが多い。ふと、自分の中にある否定的な考えや人を裁く心に気付き、ブレーキをかけて、反省するという日常の中で、心の中を覗いているのが神様だけではなく、エゼキエルのような預言者にも知られているということは、恥でしかない。また、ペラテヤたちが求めていた「自分の家を建てる(11:3)」という生活態度(=この地上が全てかのような、天に宝を積まない生き方)が、神様の御心ではないことを学んだ。 「(アブラハムは)堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。〜はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。(ヘブル11:10~13)」 今日も、クリスチャンとして生きるべき「生き方」を学んだ中で、自分の心の中の汚れを悔い改め追い出すこと、また、地上のことに心を奪われずに、霊の世界に目を向けて、神様の臨在を求めて行くことの大切さを教えてもらい、感謝だった。心に示された汚れを悔い改め、また一歩神様に大きく近づいて前進したい。(婦人)

東京支部 エゼキエル書の学びから 

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エゼキエル書10章15-20節  預言者エゼキエルが見た、ケルビムが神様の栄光を翼に載せて神殿から飛び去っていく幻。その時に、至聖所に置かれていた契約の箱も一緒に取り去られたことを学んだ。契約の箱の中には律法が入っていて、その代わりに「礎の石(イザヤ28:16)」が新しく据えられた。その石は、恵みの象徴で、イエス・キリストを指す。旧約時代の預言者たちが、このイエス・キリストの現れを予見していたことがわかった。  イエス・キリストを自分の救い主として信じて心に受け入れれば天国に入れる、、そうしてクリスチャンになったが、その時は神様からの恵みがどれだけ大きなものか、全然わかっていなかった。今日の礼拝でも読まれた、イザヤ28:18は恐ろしいことが書いてあると思った。「あなたがたの死との契約は解消され、よみ(地獄)との同盟は成り立たない」つまり、自分は死んでも地獄には行かない、大丈夫だ、という楽観的な考えが、実際にはそうならないことを言っている。生死(天国か地獄か)の分かれ目は、イエス様(恵み)を信じるかか否かということだけで決まると聖書は語っている。  神様の恵みについては、もし人間が律法(宗教や行い)を守り通せるのであれば、わざわざ神のひとり子であるイエス・キリストが罪人のためにご自身を生贄としていのちを捧げる必要はなかった。肉による生き方が、そうして与えられた神様の恵み、イエス・キリストの存在を否定するようなことだと気づいた。神様の一方的な哀れみ、恵みによって救われたのに、いつの間にか宗教家になって、恵みから漏れ、自分の力で一生懸命なんとかしようとする生き方(キリストの香りを放つどころか、肉の臭みを出す生き方)をしていた。  イエス様は、古い律法を終わらせ、自由な律法を与えてくれた。自分のやりたいことが、神様のみこころ。自分のやりたいことを心からやれば、神様が奇跡を起こしてくださる。神様に導かれて歩むことで、そういう生き方ができることを学んだ。律法とは正反対の自由な生き方。クリスチャンになってからもサタンに騙され続けていて、せっかく神様が与えてくれた恵みも、約束の聖霊様も100%受け取れていないことに気づいた。みことばの真理をもっともっと心に受け入れ、心の奥底から喜びがある歩みをしていきたい。

箴言28章14節「幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。」

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聖書の学び「エゼキエル書9章」より 忌みきらうべき事のために嘆き悲しんでいる者は、しるしをつけられ、殺されないという話から、カインとアベルの話を引かれた。 今までも、なぜカインのささげ物がいけなかったかわからなかったが、今回良心というポイントで読んだ時に、 書かれていないが、当時の常識というのがあって、カインはその常識を破っていたのではないか? アベルのささげ物に関しては、 「アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。」(創世記4:4) との形容があるあたりが、二人の差で、神様の目に留められなかった時点で、すでに良心の咎めを感じていたのでは?と考えた。 私は、クリスチャンになってから、以下のように考えるようになっている。 嫌な気分になったり、人のせいにしたり、相手を妬んだりする時というのは、 自分に否があるのが分かっているのに、認めたくなくて、周りに八つ当たり状態になっている事がほとんどではないかと。 意地を張るから余計にイライラする。カインの場合、それを治められなかったところをサタンに待ち伏せされて、最悪の罪を犯してしまった。 「神様、私がささげた穀物は、初穂でも、最上のものでもありませんでした。 分かっていながらささげました。赦してください。」と言っていたら...。 人殺しをしてしまったにも関わらず、カインがそれを嘆いた事で、 神様は哀れみ、殺されないしるしを下さったのだから、もっと早くに悔い改めていたらと思う。  自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。( 箴言 28:13  )  幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。(箴言 28:14  ) 礼拝では、13節を引かれたが、カインは、14節「しかし〜」になってしまったと思う。 罪を犯しても、告白する事で、神様は、それを捨てさせてくださる。 その恵みを信じて告白する勇気を持つ事を自分にも、まだ神様を知らない人たちにも言い続けたい。 (婦人)

聖書の学び「エゼキエル書9章」より

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神様が哀れみを他者に対して持ちなさいと命じられるように、 時には哀れむなということも命じられているということにハッとした。 サタンに対して一切の哀れみをイエス様がもたれなかったように。 人間的な情に流されやすい私はここが足りて無かったことを知った。 だから安っぽい哀れみしか持つことができない。 神様からの本当の愛で他者と接していきたいと思った。 (婦人)

東京支部:聖日礼拝後のシェア No.2

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(聖日礼拝)神のことばは真理であり愛である。偽りがないということが、すなわち愛し合うということ。困ってる人を助けるなど、広い意味での愛。愛がないと真理に立っていないということもわかった。 (男性) (聖日礼拝)知恵がない、愚か、ということは問題ではなく、偽りが問題。謙虚であれば良い。 (大人のためのCS)土曜も冒頭で同じことを言っていた。弱さを認めた人がクリスチャン。ただ、謙虚とバカは違う。何もできないこととは違う。自分の弱さを認めた後に、神様の知恵によって、聡く生きるという次のステップがあるのだと思った。 (男性) (聖日礼拝) 伝道する上で、この世の人には良心があるが、神様に対して罪を犯しているという意識がないので、悔い改めに繋がらないということがわかった。イスラエルの罪は70年かかって悔い改めた。一般の人に伝道していく上で、まずは自分自身がわかっていないといけない。原罪については、罪を犯すものとして生まれついているというのが、間違った考えだということを学んだ。イエス様もアダムの子孫。個々人として、自分の行いによって、神様に対して罪を犯す。また遜ることも重要。アモス書の「主の御言葉の飢饉」が心にきた。御言葉を心に置くことが大切。恵みと真はコインの裏表。恵みをとると、真が来る。最後に、自分はヨシャパテになる必要があることを学んだ。 (婦人) (エゼキエル書の学び)エゼキエル8章の学びから、シャファンの家系(神様に熱心に仕えてきたはずの家系)が、家の中で偶像礼拝をしていた、偽善者だった。原因は、内側におられる神様との交わりがない、ということ。心の割礼を受ける必要がある(ヌースの覆いを取り除く)というのが印象に残った。 (収穫者会)1コリントから、その時コリントの教会に起きていた問題が高ぶり。そして偽善だということを学んだ。聖書の御言葉は、神様が啓示して下さらなければ理解することができない、聖霊の助けが必要。 (大人のためのCS)「預言者のともがら」が、実はオバデヤのことで、彼はもともとアハブ王に仕える者だったが、(全てを捨てて)預言者になったということを聞いた。ちょうど、世の中の仕事をする虚しさを感じていたので、私も神様の仕事をする者に変えられていくことを目指したいと思った。 (聖日礼拝)今週は総じて「偽善」について教えられた。II...