水曜聖書研究から ~エゼキエル11:1-17より~


聖書箇所:エゼキエル11:1-17

バビロン捕囚の時代、まだエルサレムに残っていた長老たちについて、エゼキエルが見た幻(その後、本当に起きた出来事)。エゼキエルの身近にいた、尊敬する人々の心の中を、神様が覗き見られていた。そして、そのかたくなな、悔い改めない心のゆえに、神様が裁きを下された。エゼキエルのよく知っている、尊敬していたベナヤの子ペラテヤが死んだ。エゼキエルが驚きショックを受け、神様に叫んだ時、神様はペラテヤの心の中にあった秘密について、エゼキエルに打ち明けられた。彼が心の中で考えていたこと:

「(バビロン捕囚に連れられて行った民は、)主から遠く離れている。(神殿はエルサレムにある)この地は私たちの所有として与えられているのだ(11:15)」

捕囚の民を思いやるどころか、彼らを見下して裁き、しかも自分たちの偶像礼拝の罪については目を瞑り、残されたエルサレムの地を我がものにしようとする態度。しかも、神様の臨在は既に神殿から去られてのに(10:18,19)全く気付きもしない、汚れた生活態度。表向きは良い人だったからこそ、エゼキエルは神様にその人の本心を教えてもらって驚いた。

神様が私の心の中を覗き見られることは、クリスチャンとして生活しながらも、意識していないことが多い。ふと、自分の中にある否定的な考えや人を裁く心に気付き、ブレーキをかけて、反省するという日常の中で、心の中を覗いているのが神様だけではなく、エゼキエルのような預言者にも知られているということは、恥でしかない。また、ペラテヤたちが求めていた「自分の家を建てる(11:3)」という生活態度(=この地上が全てかのような、天に宝を積まない生き方)が、神様の御心ではないことを学んだ。

「(アブラハムは)堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。〜はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。(ヘブル11:10~13)」

今日も、クリスチャンとして生きるべき「生き方」を学んだ中で、自分の心の中の汚れを悔い改め追い出すこと、また、地上のことに心を奪われずに、霊の世界に目を向けて、神様の臨在を求めて行くことの大切さを教えてもらい、感謝だった。心に示された汚れを悔い改め、また一歩神様に大きく近づいて前進したい。(婦人)

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