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2026年2月22日 聖日礼拝後の様子 名古屋礼拝所

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礼拝後、メッセージで語られた聖書のことばについて分かち合いました。   (Aさん)  ルカ7章の、100人隊長の話、全イスラエルよりもまさる彼の信仰と、1コリント8:2~3の関連を教えていただいた。彼は、ユダヤ人を愛し、私財を投げうって会堂を建てた人なので、神様との交わりがあったと思われる。100人隊長にあったものは、神への愛で、「人が神を愛するなら、その人は神に知られていること」。信仰と愛と希望はつながっているので、彼は神を愛し、その愛する神が与えて下さるという希望を持ち、その希望に基づく信仰があった。「信仰」という日本語の語感からの私の誤解は「清らかな修道女が一人静かに礼拝堂で祈っている様子」とか、反対に、「お前、まだ信じないのか!ただ信ぜよ!信ぜよ!」と、カルト宗教の気合信仰のイメージ。しかし、信仰の定義としては、ヘブル11章の「神を求める者には報いてくださる」ということがあるので、その無意識に持つ誤りを正し、信仰は神様への愛と希望と一つであることを覚えていく。   (Bさん)  ルカ7章の100人隊長の信仰は、彼の、イエス様とそのことばへの尊敬とつながっている。「この人は大工の息子ではないか」と言ったナザレの人たちにはそれがなく、汚れた心になっていった。

2026年2月15日 聖日礼拝後の様子 名古屋礼拝所

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本日は、ロサンゼルス本部のJさんも参加されました。 礼拝後、メッセージで語られた聖書のことばについて皆と分かち合いました。 (Aさん) 動物が瀕死の状態で拾われ、世話をされて健康に戻れば、普通はその動物は飼い主になつく。ルカ17章で、らい病という、死と隣り合わせの大病を癒してもらって、それでも感謝しない、奇跡を体験してもイエスキリストを心に受け入れない、これが人間だということを見て、意外というか、少し驚いた。これだけどん底の人生を歩めば、人はもっと砕かれて謙遜になると思っていた。らい病が癒された9名は、たまたま歩いていたら、病気が治っただけだと自分に言い聞かせて、この体験をなかったことのようにしたいかもしれない。 聖書のみことばは権威だということについて・・・権威はただの称号では意味がなく、権威は力であり、力は、実際の変化をもたらすもの。イザヤ55章のたとえで、1粒の種が実際に実をならせることは変化であり、力。普段の生活でもその変化が実際に起こることを見ていく必要がある。 (Bさん) ルカ7章の百人隊長の話の背景を礼拝で聞き、百人隊長の謙遜さ、神のことばの権威に対する謙遜さを教えられて、自分はどうかと改めて考える機会を与えられて感謝だった。明日からどう生きるか・・・みことばを口から出していくことをもっとやっていこうと思った。 お義父さんが最近眠れなくなり、そのことを家族四人で、聖書のみことばを読んで祈った。その週に病院でもらった薬が合っていたようで眠れるようになった。お義母さんも起こされて眠れていなかったが、それでお義母さんも眠れるようになった。見えるところでは病院の薬が効いたが、裏では神様が働いてくれたことを、聖書通読の時にお義父さんに話した。そうやって、お義父さんが体験しながら、聖書のみことばが何と言っているか、聖書のみことばの上に立って祈れることを神様に感謝です。

2/1 聖日礼拝後の様子 名古屋礼拝所

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  礼拝後、メッセージで語られた聖書のことばについて分かち合いました。 (Aさん)カペナウムはイエス様の第2の故郷で、イエス様のことばがあふれていたはずなのに、イエス様にソドムよりも悪いと言われた。いくら神様のことばがあっても手元に聖書があってもそれを人が信仰で受け取らなければ、何も起きない。 マルコ5章の病気の女性も、イエス様のことばと自分の信仰を結び付けたのでイエス様の衣を触って癒された。 他の人たちは、イエス様の衣に触っても何も起きなかった。 いくら、神様が人に語っていても、本人に信仰がなければ神様も何もできないことが分かった。

2025年11月16日聖日礼拝後の様子 名古屋礼拝所

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〈礼拝のリフレクション〉 (Aさん) ことばが設計、デザインであり、失敗がないこと、ことばは感情ではないことを聞きました。そのことばを発する人が感情的になって、どのことばを発するかによって、何が実現するかが決まることを教わった時、自分がいつもいのちのことばを発していく事の大切さを知りました。自分の発することばに気を付けていきます。 (Bさん)マルコ5章の長血の女のことをイエス様は知らなかったのに、彼女は信仰の法則によって癒された。イザヤ55章では、神様のことばを、感情的なものとしてではなく、建築や設計として描写していて、そこには何かの気まぐれや偶然は介入できない。信仰とは必ず成就することを、自明のこととしてとらえるものであり、感情的、曖昧なものではないことが分かりました。

2025年11月2日聖日礼拝後の様子 名古屋礼拝所

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 〈 礼拝後のリフレクション〉 (Aさん) イエスさまのみことばを、「自分の感じ」として発することは良くないこと。 この間、バスに乗ったときに、隣の人が話しかけてきて、否定的なことばを言ってきたが、 自分も同じことばを言っているのではないかと思った。 そのことばに流されてはいけないと思った。聖書のことばを、日常生活の中心に置く必要がある。 教会に来てクリスチャン同士、兄弟姉妹の中にいるとそういうことがないので、 教会に集うことができることは喜びだと改めて思わされた。 みことばによって生きることを自分に言い聞かせて、祈る時もそういう思いで祈る。

2025年10月19日聖日礼拝後の様子 名古屋礼拝所

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〈礼拝後のリフレクション〉 (A さん ) 本日の礼拝賛美の中に、 パスターご家族が日本に来て父の葬儀をして下さった時に歌った賛 美があった。それを思い出した。 父が天国に行くことができたことが何より感謝なこと。 永遠のいのちがあることは感謝で、いつも喜びと平安がある。 神様のことばで人が生かされることはすごいこと。   (B さん ) 聖書の2コリント 5 : 14 〜の箇所は好きなことば。 新しくされた自分の生き方を思い起こさせてくれる。特に「 キリストの愛が取り囲んでいる」というところ。私は、 もう自分のために生きる古い生き方をするものではない。  

10/12 聖日礼拝後の様子 名古屋礼拝所

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〈礼拝後のリフレクション〉 (Aさん) 創世記22章で、雄羊が焼かれていたときに、実際にはイサクも焼かれていたこと、同様に、イエス様が十字架にかかられた時に、自分も十字架にかけられたことを学びました。古い時分はイサクと同様に、完全に焼失していて、今生きているのは蘇られたイエス様と共に生きている自分であるということを受け取っていきたい。 (Bさん) 創世記22章で、アブラハムから話を聞いて、死からの復活を信じ、自ら祭壇に登ったイサクの話を聞いて、今まではそのまま読み過ごしていた箇所のもっと深い事を知り驚いた。そして、イサクは実は青年であり、父から、自分が生贄となる事や死と復活の事を聞いて、彼にどんな葛藤があったのだろうかと考えた。アブラハムからイサクへと、復活の信仰が繋がっていき、私達にも伝えられた事に感謝します。 (Cさん) 今日は、聖餐式ということで、イエス様の十字架、贖いをメッセージでお聞きして、神様がどんなに私たちのことを愛しておられるかというのをまた再認識したのと同時に、主なる神様が約束されたこととは、誓ったと仰せられたら、必ずその通りになるという、その神様のことばが非常に強く心に響きました。 (Dさん) イエス様が十字架にかかって死なれたのは、私のために死んでくださった。ありがたいと思った。  

2025年10月5日 聖日礼拝後の様子 名古屋礼拝所

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10/5 名古屋礼拝所 の聖日礼拝後の様子です。 本日はFさんとKさんの誕生日を皆でお祝いをし、 礼拝メッセージで受けた恵みを分かち合いました。 〈礼拝後のリフレクション〉 (Aさん) 創世記22章の「主の山に備えがある」ということばは、単に神様が人の必要を先回りして与えて下さるということを意味するだけではなく、アブラハムに、イサクの復活を備えてくださったのと同様、全人類に、イエス様の復活ということを備えてくださったという、神様の壮大な備えのことを言っていることが分かった。 (Bさん) 聖書のメッセージの中で、人の信仰は神様から見たら実質のあるもので、神様にとって、その人が信仰を持っているか持っていないかは、一目瞭然だと言っていた。創世記22章で、アブラハムとイサクと一緒に雄羊も歩いていたということが、原語からひも解いて分かった。イサクが死んでも神様が彼を復活させてくださるという信仰、神様が生贄を備えてくださるという信仰が、神様の目と一致して、アブラハムの目にも見えていたということがわかった。霊の世界の現実を、自分の信仰の目を通して見て行くことを意識していきたい。

2025年9月14日聖日礼拝後の様子 名古屋礼拝所

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〈礼拝後のリフレクション〉   (A さん ) イエス様が体を持ったまま、来られた。体を持っていないとできないことがある。神様が体を持ってまで、この世に来て十字架にかかって死んでくださった。それで私たちに平和が来たことが、どれだけ重要なことか。アブラハムが、神様に言われた通りに、イサクを惜しまずに捧げたことは、すごく意味のあること。だから自分も、アブラハムのように本当に全て神様のために尽くして生きることをしたい。   (B さん ) 行動した方がいいと、メッセージの中で、ずっと言われてた。しかし、今日「体」ということばが出てきて、よりわかった。行動が大切なのは、神様が持っていない体を私たちは持っているから。神様に捧げるイコール自分のための行動をやめることも印象的だった。聖書の知識もないし心からの行動もまだできない。まずは教会に行くこと、祈りをすること、この 2 つは絶対していって、これからもっと、他の人のために行動したいなと思った。

2025年9月7日 聖日礼拝後の様子 名古屋礼拝所

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9/7 名古屋礼拝所 の聖日礼拝後の様子です。 本日はロサンゼルス本部より、Sさんも礼拝に参加されました。 礼拝メッセージで受けた恵みを皆で分かち合いました。 (Aさん) 創世記22章で、待ちに待った可愛い我が子のイサクを捧げよと、 神様はアブラハムに告げられ、 その命令に従おうとした彼の心境は余りある。 雄羊がいばらに角をひっかけていたことや、ロバの背中に木があるなど、 イエス様の十字架のあがないを示唆している尊いみことばを知った。 神様の義を行うことの大切さを学んだ。 (Bさん) すごく深い内容のメッセージだった。普通に信者でこんなに深い内容が必要なのかと思い、 自分に与えられているものの大きさにびっくりした。 自分が聞いて満足しているだけではいけない。 教会に誘いたいと思う人が何人か思い浮かんだ。誘う機会があるように神様に願った。 (Cさん) みことばがわかっていなくても行なっていく過程の中で、動機が大事だとわかった。 イエス様を知ったり、神様の心を知ることで動機が変えられて行く。 メッセージを通して、聖書のみことばの細かいこと、ニュアンスまで教えてもらうことは大事だと思った。 礼拝を通して動機が変えられてきているのだとわかった。