エゼキエル書の学びより ”新しい歩みができるように変えられて”

聖書箇所:エゼキエル書11章 

『イエス様が十字架にかかり、私たちの罪の身代わりとして死んで、3日目によみがえり、イエス様を心に主として受け入れたクリスチャンたちに「聖霊(霊なる神様)」を送ってくださったことによって、罪が赦された私たちに新しい良心(霊)を与えられ、霊によって歩むことが可能になった。(但し、すべてのクリスチャンが霊によって歩んでいるか?は別の話)』このことは知識としては持っていたけれども、それまで律法に従って歩んでいたユダヤ人にとって、それがどういう意味か?イエス様が律法を終わらせた(完成された)というのがどういう意味か?について、今日のメッセージからさらに深く学ぶことができた。 

エゼキエル11章19節「わたしは彼らに一つの心を与える、すなわち、わたしはあなた方のうちに新しい霊を与える」イエス・キリストを通して成されたことが、既に旧約聖書に書かれていることは知っていた。けれどそのあとに、律法の書である申命記にも、そのことが既に預言されていたことを知って驚いた。申命記30章6節「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる」そのような新しい歩みができるように、私達を変えてくださるのは「神様」だということを改めて知った。これまで自分の努力で生きてきて、うまくいかず失敗して、神様を求めてイエス様を受け入れ救われ、そのあとまた自分の努力で律法を守って生きようとする人間の姿を、神様はどれだけ忍耐して見ておられるだろう。

 「自分の力では無理です!神様、私を変えてください!」こうやって心を神様に開放して、神様が私の心を変えてくださるように祈ればいいんだ、ということがわかった。メッセージを聞いた後、とても心が軽くなった。自分の肉の力で目標を達成しようとしてる間は、結局自分にはできないことが心のどこかでわかっているから、不安や恐れがある。けれど、神様に委ねて、神様がそれをやってくださるとわかると心に平安と喜びがくる。自分の中にはまだまだ汚れた考えがあるし、神様の清さにはほど遠いけど、神様が自分を変えてくださるから、私は喜んで神様の訓練をこれからも受けていきたい。ハレルヤ!



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