東京支部 エゼキエル書の学びから 

エゼキエル書10章15-20節 

預言者エゼキエルが見た、ケルビムが神様の栄光を翼に載せて神殿から飛び去っていく幻。その時に、至聖所に置かれていた契約の箱も一緒に取り去られたことを学んだ。契約の箱の中には律法が入っていて、その代わりに「礎の石(イザヤ28:16)」が新しく据えられた。その石は、恵みの象徴で、イエス・キリストを指す。旧約時代の預言者たちが、このイエス・キリストの現れを予見していたことがわかった。 

イエス・キリストを自分の救い主として信じて心に受け入れれば天国に入れる、、そうしてクリスチャンになったが、その時は神様からの恵みがどれだけ大きなものか、全然わかっていなかった。今日の礼拝でも読まれた、イザヤ28:18は恐ろしいことが書いてあると思った。「あなたがたの死との契約は解消され、よみ(地獄)との同盟は成り立たない」つまり、自分は死んでも地獄には行かない、大丈夫だ、という楽観的な考えが、実際にはそうならないことを言っている。生死(天国か地獄か)の分かれ目は、イエス様(恵み)を信じるかか否かということだけで決まると聖書は語っている。 

神様の恵みについては、もし人間が律法(宗教や行い)を守り通せるのであれば、わざわざ神のひとり子であるイエス・キリストが罪人のためにご自身を生贄としていのちを捧げる必要はなかった。肉による生き方が、そうして与えられた神様の恵み、イエス・キリストの存在を否定するようなことだと気づいた。神様の一方的な哀れみ、恵みによって救われたのに、いつの間にか宗教家になって、恵みから漏れ、自分の力で一生懸命なんとかしようとする生き方(キリストの香りを放つどころか、肉の臭みを出す生き方)をしていた。 

イエス様は、古い律法を終わらせ、自由な律法を与えてくれた。自分のやりたいことが、神様のみこころ。自分のやりたいことを心からやれば、神様が奇跡を起こしてくださる。神様に導かれて歩むことで、そういう生き方ができることを学んだ。律法とは正反対の自由な生き方。クリスチャンになってからもサタンに騙され続けていて、せっかく神様が与えてくれた恵みも、約束の聖霊様も100%受け取れていないことに気づいた。みことばの真理をもっともっと心に受け入れ、心の奥底から喜びがある歩みをしていきたい。


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