東京支部 教会学校、教材の学びから

聖書箇所:II列王記 10:12-27 

 今日もたくさんの真理を学んだ中で、バアル(偶像)の信者に与えられた「祭服」のことが一番印象に残った。新しくイスラエルの王になったエフーとレカブ人ヨナダブが手を組み、偶像礼拝をイスラエルの国から撲滅するために、バアルの集会を催す装いをして信者を呼び集め、剣で打ち殺した話。その時に、バアルの信者の目印になったのが、身に付けた「祭服」だった。その「祭服」を着ていたかどうかが、生死の分かれ目になった。

 これに似た話で、新約聖書のマタイによる福音書22章では、礼服を “身に付けていない” 人が裁かれた。 私たちからすると、服装は体の外側に身に付けるもので、人から一番よく目に付くもの。同じように、聖書に書かれている「服装」とは、神様から人間を見たときに一番よく目に付く「心の中」のことを指していることがわかった。普段の生活では人から見られているのは外側だけだから、なかなか自分の内側に意識が行かないけれど、神様の前では心の中の動機や汚れが丸見えで、隠し通せることは何一つない。その心に「何を着ているか?」が、自分の魂の生死の分かれ目だとしたら、普段からどんなに注意して生きていかなければならないだろう。しかも、すでにその心が罪や汚れでいっぱいだったら..? 

 そのあと、ゼカリヤ3章より、私と同じように「汚れた服」を着ていた大祭司ヨシュアの話が読まれた。ヨシュアは、汚れた服を着て主の御前に立っていて、その右手に彼を訴えようとして立っているサタンがいる。「もう服(心)は汚れてしまっているのは、神様の目からも明らかで、しかもサタンが証人として自分を訴え出ている、、絶体絶命、、!」その時に神様(のみ使い)は、「彼の汚れた服を脱がせよ」と命じ、「見よ。わたしは、あたなの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう」と宣言された。
 これが、イエス・キリストがわたしのためにしてくださったことだ、、ということがわかった。私の罪の身代わりに十字架にかかり、その血潮でわたしの心を洗ってくれた。 「あなたは、これからは新しい服を着なさい」と、イエス様が新しい祭司服を差し出し、わたしに与えてくれたことが、どれだけの恵みなのかわかった。これからは「新しい服」を着て人生を歩み、わたしを訴え出るサタンに対しては、イエス様の十字架によってわたしが不義とされたこと、イエス様がすでにサタンに勝利したことを宣言して歩んでいきたい。ハレルヤ!


 

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