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教会学校レポート「ああ、わが主。あれは求められたものです(Ⅱ列王記6:5)」

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日付:6月21日 聖書箇所:Ⅱ列王記6:1-7 暗唱聖句: ああ、わが主。あれは求められたものです(Ⅱ列王記6:5)。 参加メンバー: ラケル 、ヨセフ、レビ、エフライム(仮名) はじめに、牧師夫人からのメッセージを エフライム に伝えました。 エフライム だけでなくみんなにも当てはまることだよと話しました。こどもたちは、静かに聞き、うなずいていました。 先生が祈って始めました。 今日の箇所を読みました。こどもたちはイソップ物語の金の斧と銀の斧の話を思い出したようで、この話とは何か関係しているのかな?と話していました。 今日の聖書箇所の話は初めて聞くと言っていました。 もう一度話をまとめて伝えました。斧の頭が浮かんできたと言うところでは「へーすごいね」と言っていました。 そうだね。でもすごい奇跡だね、エリシャはすごいねということだけを言いたいのではなく、ここから神様が教えたい真理があってそれがみんなにどう関係するのかということを知ることが大切だよ。 借り物について、メッセージで聞いたイスラエルでは鉄の技術がなく、誰もが持っていたものでなく、借りて使ったりしていたため、ここでもそのように借りていた。この借り物をヘブル語でサウルと言うことを話しました。どこかで聞いたことがないかと聞くと、パウロ!サウル王!と答えていました。そうだね。意味は求められたものであることを話、サムエルの箇所を読みました。神様に渡された、捧げられたもの。この世界で一番神様に求められたもの、捧げられた人は誰か。と聞くと、イエス様と エフライム が答えていました。 テキストにあるように、イエス様を借りて神の国を築くためであり、そこに住む家を建てる木を切り倒すために借りた鉄の斧、この借りた鉄の斧が水の中に落ちてしまった。と話すと、 ラケル は、わかった、イエス様が死んでよみがえったと言うこと。と言っていました。そうだね。イエス様は地獄へ行き、よみがえられた。 レビ が、僕たち水の中にこうやったねと言いながら、バプテスマの時の動作をしていました。そうだね。イエス様とともに死んで、イエス様とともに生き返り、あたらしい自分となった。 イエス様は復活した後天に上られた、そこでなにをしているかな? イエス様は大工さんだったね。天国で私たちが住むマンションを建てられているんだよ。と話、ヨハネ14:1-2を読み...

イエス様の血潮によって、死も病気も(コロナウイルスも)私たちに対して何もすることができないのです。

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出エジプトの過越の話しを通して、神様との契約のことを学びました。さばきがエジプトの地に来た時に、羊の血を戸口の上部に掛けるだけで、そのさばきがイスラエル人の家をスキップした(過越)。また、今日のメッセージから、パスターはこの出来事はただの儀式ではなく、今でも同じことをするとしたら、同じことが必ず起きると言いました。つまり、イエス様の血潮によって死も病気も(コロナウイルスも)神様を信じている私たちに対して何もすることができないのです。イエスキリストの血潮を感謝します! 礼拝の後、福岡ブランチの姉妹とスカイプでシェアしました。 彼女は、日曜学校で子供達に教えたことをシェアしました。第二列王紀6章の斧の話しでした。この話で、預言者のともがらが斧を使って木を切り倒したが、その作業をする途中に、斧の頭が水の中に落としてしまいました。しかし、エリシャが枝を水の中に投げたら斧の頭が浮かび上がりました。この話しも、イエス様の十字架に繋がっていて、枝が斧の頭が水から浮かび上がらせたように、イエス様の十字架での死と復活によって、人間は死の中から救わられたのだとシェアしました。 神様の恵みを感謝します! ハレルヤ!

”みことばカード” 1ペテロ 4章8,9節

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毎週の暗唱聖句をそれぞれの礼拝所でオリジナルのカードにしています。 今週のみことば 「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。 つぶやかないで、互いに親切にもてなし 合い なさい 」 (1ペテロ 4章8,9節) 甲府 メンフィス イエス様が復活された時にその愛が地球(罪)を覆ったのをイメージしています。

”みことばカード” ヨハネの手紙第一 3章18節

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毎週の暗唱聖句をそれぞれの礼拝所でオリジナルのカードにしています。 今週のみことば 「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、 行いと真実をもって愛そうではありませんか。」 (ヨハネの手紙第一 3章18節) 甲府 メンフィス

神様に喜ばれる行いができたか?祈れ!

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参加 ラケル、レア、ユダ、ヨセフ、レビ、エフライム(仮名) 場所 福岡市H駅 時間 6/13/2020 11:25-11:55 トラクト配布数 90枚くらい レアさんはもともと仕事で来れないと言っていたが、キャンセルになったとのことで、来ました。エフライムも土曜日トラクト配りがあるんだったら行くとレアさんに連絡がいっていたようで、来ました。 まずは聖霊の力に満たされて大胆に配れるように、教会学校で学んでいるように与える者としてトラクト配りを喜んでやっていくこと、トラクトが用いられるように祈って、出発しました。 駅の様子はほとんど元に戻った感じで待ち合わせをしている人や電車を利用する人がいて、人通りはありました。 エフライムは「配ることができない」と言って、ヨセフにくっついていました。 ヨセフやユダは、「私たちも最初はそうだった」と言っていました。 「受け取って行かなくても気にする必要はない、人を選ばないで来た人に渡すだけだよ。」と話しました。 少し時間が経ち、エフライムはまだ配ることが出来ずにいたので、まずは隣にいて祈ることをやるように話しました。 レビは元気よくどんどん配っていました。 レアさんは、名古屋のように看板を立てたらいいのでは?と言っていました。 賛美もかけながらやるのが良いと言っていたので、いずれやっていきたいと話しました。 配り終え、礼拝所に戻ってから、牧師婦人からメールをいただいてたこと、 ”神様に喜ばれる行いができたか?祈れ!” と話し、祈って終わりました。 その後、食事を作って食べました。 今後も引き続きトラクト配りのあとは簡単なランチをしようかと考えております。 (婦人)

イエス様の「行いと真実の愛」によって救われた私

先週の礼拝メッセージからは、 イエス様が十字架の上で「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ(わが神。わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばれたことが強く印象に残り、この地上に来られる前からずっと持っておられた父なる神様との関係が引き裂かれる時だったと聞いた。そこから私は何を学んで適用すれば良いのか?と1週間考えて過ごし、感想を途中まで書いて送れずにいた。 今週は、 出エジプト12章でイスラエルの民が初めて神様に捧げた生贄は自分達が可愛がっていた羊だった。心が入ったものであり、それを生贄として屠ることは簡単なことではない。その羊が捧げられて、イスラエルの民は神様との契約の中に入った。 と聞いて、十字架の上のイエス様を思い出した。父なる神様は可愛いひとり子のイエス様を罪人であった私のために捧げてくださった。イエス様はご自身が生贄となってくださった。 私自身は何も捧げることなく神様との契約の中に入ることができた。 礼拝の中で暗唱聖句 「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」( 1ヨハネ3:18) を読みながら、「行いと真実の愛」を完璧にされたのはイエス様しかいないと思った。 最近牧師夫人から”清さ”について教えがあり、世の中での清さを例に出されていた。それを聞いて、どれくらい清ければ良いのか?とずっと考えていた。 十字架の上のイエス様を思い出した時に、私は世の中を基準にして考えていたことに気づいた。 イエス様の「行いと真実の愛」によって救われた私はイエス様を基準にして生きるようにされているのだと改めて気づけてよかった。 (婦人)

コロナも吹っ飛ぶ、主の聖餐ランチ!

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今日は礼拝後、6月の誕生日(3人)のお祝いで誕生日ランチ Happy Birthday❗️ 教会メンバーからの寄せ書きカードでお祝い メニューは手巻き寿司とサンデーです。 約2ヶ月ぶりのランチ、恵みの時でした。

神様の栄光を現すことができるのだ

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恵みとまことをテーマに、みことばを学びました。 イエス様は、十字架にかけられる前夜に過越の食事を弟子達と共に行うことを、「ずっと準備されてきた」、という話を聞いて、「”ずっと" というのは、神様にとっては、いつからだろう?」と考えました。その後、出エジプト記12章が開かれ、歴史上初めての「過越の祭り」について語られた時、「神様(イエス様)は、この時代(何千年も前)からずっと、その日がくるのを待っていたんだ。。」ということがわかり、神様の計画の偉大さを想いました。 私たちに恵みを与えるために、ご自身が持っておられた恵みを捨てて十字架にかかってくださったイエス様。十字架にかけられる前夜の過越の食事を通して、弟子達の罪が小羊であるイエス様に移り、イエス様の血とからだによって「永遠のいのち」をいただくことができるという新しい契約を、弟子達(そして、イエス様を受け入れた今の私たち)と結ぶという、人間にとっては全く想像も及ばない恵みを、ずっと準備されてきた、という事実。 同じように人にイエス様のことを伝える時も、その相手のことを神様が "いつから" 選んでいたか?というと、聖書曰く「初めから(IIテサロニケ 2:13)」つまり、「天地創造の前から(cf.ヨハネ1:1他)」ということ。つまり、霊の世界におられる神様が人間のために計画されていることを、人間のレベルで全て知ることはできないし、ましてやそれ以上の考えは及ばない。だから、私たちは全ての物事をまるで自分から出たことかのように振舞うべきではなく、常に神様の御心を聞き、神様に従うことで、神様の栄光を現すことができるのだということがわかりました。 (婦人)

この地上にある苦しみは天国には最早存在しない

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1ペテロ3,4章から、「私たちが天国に行ったときは、この地上にある苦しみは、もはや存在しない」、というメッセージを聞き、とても励まされた。 この地上での人生は短く、天国での生活は永遠に続く。 また、ローマ12:2より「この世と調子を合わせる」ことについて、自分が若い時に(友人は多い方ではなかったが)、 相手に受け入れてもらえるよう、たまに調子を合わせていたことがあった。 その後の人生で、そのような努力がなんの価値もないことがわかった。 もっと早くこの聖書の真理を知っていれば、通らなくても良い苦しみが沢山あったと思う。 I listened to the message on 1 Peter 3 and 4. I learnt again that there is no suffering when we get to heaven, as there is on earth. I was very encouraged (even many years ago, but again today) to learn that though our life on Earth is short, our time in heaven will be infinitely longer. Also from Romans 12:2, about "going along with the world" I remember that when I was young, though I had few friends, sometimes I joined in with people to try and get their acceptance. Later in my life (now), I realize that all the effort was not worth it at all. I If I had learnt this truth earlier, it would have saved a lot of pain. (婦人)

神様のみことばが皆さんに届きます様に

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【甲府礼拝所トラクト配り】 朝、どうか晴れてトラクト配れますようにと祈った。 トラクト配る時間帯、雨がやんで感謝だった。 いままでで一番配れた。 本日はトラクトと共にみことばカードを一緒に添えて 配った。トラクトは折りたたんでしまったが、 みことばカードをじっと見つめている人がいた。 やっぱり、みことばは凄いなって思った。 みことばカードをこれから添えて配ろうと決めた。 (婦人1) 今日はお天気は悪かったですが、思ったより人がいて本当によかったです。 昨日のパスターのメッセージで「私たちは神さまからの恵みをいただいて、それを流している」ということを聞いて力まずに出来ました。 今までとにかくトラクトを受け取ってもらわないと…と思っていましたが、 そうではなくて一人でも、神様の言葉を読んでもらう事が大切だと思いました。 今日はトラクトを受け取ってくれた人が、 内容を読んでいたり、イラストを眺めていたりするのを改めて見て本当に嬉しかったです。 (婦人2) 小雨は時々ありましたが、子供さんを連れた親御さんもいらっしゃいました。 今日のみことばカードを子供さんにお渡ししたいと思っていましたが、 トラクトと共に、子供さんにとカードもお渡しした所、 お父さんから「どうもありがとうございます」との言葉を頂きました。 神様のみことばが皆さんに届きます様にと願いました。 子供さん用のカードがあったらと思いました。 甲府礼拝所のお二人にもお話したいと思います。 (婦人3)

新しい契約によって恵みの中に入れられた者の特権

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この一週間、自分の罪について思い返してみた。自分はどれだけ多くの罪を赦されてきたんだろう。 それを赦されて、神様の子供にされたということは、どれだけの恵みなんだろうとその大きさを知った。 神様に一個一個聞きながら、その恵みを周りに流せるよう、他者を愛せるよう生きていきたい。 (婦人1) 今週いままで悩んでいた事について、いろんな人を通して答えをもらえた。 その後、すごく喜びに満たされた。 先週のトラクト配り、みことばカード作り、礼拝など、 喜びに満たされながら行えた。いままでは頭で考えてこうしなければとかあったが、 それがすっと取れた。 過ぎ越しで自分の飼っていた羊を差し出すところで、いけにえの尊さをしった。 イエス様自身がそのいけにえとなってくださった。そのことを改めて痛感した。 (婦人2) 新しい契約によって恵みの中に入れていただいた。 祈りが聞かれるのは恵みの中に入れられた者の特権。 イエス様の血潮によって生まれ変わって、その中に入れられた 幸せを改めて知った。それはとこしえに変わらない。 自分は恵みを頂いた。それを他者に流していきたい。 礼拝の最後にパスターが仰ったように 自分ができることから始めたい。 (婦人3)

命の切符配り

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ダヴァール教会では各地でトラクト(福音を伝える冊子)を配布しております。 そのグループからの報告です。 【日時】2020年6月6日(土)6:00~6:30  【場所】Y市H団地  【配布数】 90戸中80戸 (婦人1)37枚  (婦人2)43枚  【配布方法】 棟が9個に分かれており、各棟の1階の集合ポストにトラクトを1枚ずつ配布しました。 空き家には入れていません。 <感想>  (婦人1)今回はポスティングを行う棟ごとに神様にお祈りをしました。 神様のみことばが皆様に届き、教会に来て頂けます様に。  (婦人2)今回はとても嬉しい気持ちで配布が出来ました。 配布中は朝早かったこともあり、誰にも会いませんでしたが 配布が終了して、車に乗ると住人の方が出てきました。 毎回スムーズに配布出来ているのは本当に神様の導きだと思いました。

仲間の学びリポート

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第二列王記5章 〜将軍ナアマンの癒しの奇跡から学んだこと〜 ナアマンの、預言者のことばに対する信仰についての話。 私自身最近肩を痛めて、手術も検討に入れてリハビリする必要があるといわれ、もし手術になったらどうしよう、ちゃんと回復するのか、仕事はどうなるのかなど思い悩み、苦しんでいた。 神様への祈りも「助けて下さい、どうしたらいいですか」という内容になっていた。 でもあるとき自分にはたくさんのみことばが与えられていることに気づき、苦しみを手放すことができた。(詩篇91篇、箴言4:20-23など) ことばへの信仰がないと神様も恵みを与えようがないことを実感した。 (婦人1) ナアマンの話から、また新たな真理を学びました。 特にII列王記5:9「家の入口、戸」については、天幕や神殿の入り口と同様(出エジプト33:7-11、1サムエル1:9-11)に、「戸は、神様と出会う場所(霊の世界の入口)」であることを知り、目には見えないけれど、戸という接点を通じて、神様と交わりを持てることがわかりました。 ちょうど同じ部屋の中にいても、神様の臨在が変わるのは、それが理由なんだな思いました。 神様の臨在があると、普段読む聖書の御言葉もスッと心の中に入ってくるし、祈っていても「聞かれた!」という確信が来ます。 変わることがない神様のことば(=聖書)に対し、私自身が真剣に神様を求める心、悔い改めへりくだった心を持つことで、将軍ナアマンが家の入口に立った時に神のことばが語られたのと同じく、戸を通じて、もっと神様との交わりを持っていきたいと思いました。 (婦人2)

箴言28章14節「幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。」

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聖書の学び「エゼキエル書9章」より 忌みきらうべき事のために嘆き悲しんでいる者は、しるしをつけられ、殺されないという話から、カインとアベルの話を引かれた。 今までも、なぜカインのささげ物がいけなかったかわからなかったが、今回良心というポイントで読んだ時に、 書かれていないが、当時の常識というのがあって、カインはその常識を破っていたのではないか? アベルのささげ物に関しては、 「アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。」(創世記4:4) との形容があるあたりが、二人の差で、神様の目に留められなかった時点で、すでに良心の咎めを感じていたのでは?と考えた。 私は、クリスチャンになってから、以下のように考えるようになっている。 嫌な気分になったり、人のせいにしたり、相手を妬んだりする時というのは、 自分に否があるのが分かっているのに、認めたくなくて、周りに八つ当たり状態になっている事がほとんどではないかと。 意地を張るから余計にイライラする。カインの場合、それを治められなかったところをサタンに待ち伏せされて、最悪の罪を犯してしまった。 「神様、私がささげた穀物は、初穂でも、最上のものでもありませんでした。 分かっていながらささげました。赦してください。」と言っていたら...。 人殺しをしてしまったにも関わらず、カインがそれを嘆いた事で、 神様は哀れみ、殺されないしるしを下さったのだから、もっと早くに悔い改めていたらと思う。  自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。( 箴言 28:13  )  幸いなことよ。いつも主を恐れている人は。しかし心をかたくなにする人はわざわいに陥る。(箴言 28:14  ) 礼拝では、13節を引かれたが、カインは、14節「しかし〜」になってしまったと思う。 罪を犯しても、告白する事で、神様は、それを捨てさせてくださる。 その恵みを信じて告白する勇気を持つ事を自分にも、まだ神様を知らない人たちにも言い続けたい。 (婦人)

聖書の学び「エゼキエル書9章」より

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神様が哀れみを他者に対して持ちなさいと命じられるように、 時には哀れむなということも命じられているということにハッとした。 サタンに対して一切の哀れみをイエス様がもたれなかったように。 人間的な情に流されやすい私はここが足りて無かったことを知った。 だから安っぽい哀れみしか持つことができない。 神様からの本当の愛で他者と接していきたいと思った。 (婦人)

第二列王記4章31節「その時にはもう、かまの中には悪い物はなくなっていた。」

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「かま」は教会(神の国)であり、「悪い物」は毒(死、悪い言葉)。飢饉が起こり、預言者たちはなんだかわからないうりを見つけて料理して食べようとしたらそれは毒だった。神の国の住人でも、世の中から教会へ気づかないで毒を運んでくることがある。また、心のページに書かれていることが行動として現れ、それが悪い物であれば毒を撒いてしまうということを学んだ。 これからは礼拝の前日には自分をよくチェックして悪い言葉を出し、「明日は心のページの空いたところにみことばを書いていただくんだ」という心で礼拝当日に備えることをしたいと思った。また、心のページを整えて礼拝に参加し自分が毒を撒かないことが、先週のメッセージで聞いた互いに愛し合うことにつながるのだと思った。聖別して礼拝へ行く理由が一つ具体的にわかってよかった。(婦人)

ペテロの手紙 第一 4章8節「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。」

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小さい頃から、「互いに愛し合う事」はキリスト教で大事な戒めだと知ってたが、 イエス・キリストが教えた全ての細かいことが、この戒めの中に入ることが今日分かった。 また、歳を重ねてきた中で、牧師先生が聖書を通して語られてる御言葉が、 私の今までの実際の体験とマッチすることが多くあり、牧師先生のメッセージに対して、 「まさにその通り。私がそれを体験しました」と言うことできる。 とても大きな励ましになります。(男性)