イエス様の「行いと真実の愛」によって救われた私

先週の礼拝メッセージからは、 イエス様が十字架の上で「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ(わが神。わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばれたことが強く印象に残り、この地上に来られる前からずっと持っておられた父なる神様との関係が引き裂かれる時だったと聞いた。そこから私は何を学んで適用すれば良いのか?と1週間考えて過ごし、感想を途中まで書いて送れずにいた。
今週は、 出エジプト12章でイスラエルの民が初めて神様に捧げた生贄は自分達が可愛がっていた羊だった。心が入ったものであり、それを生贄として屠ることは簡単なことではない。その羊が捧げられて、イスラエルの民は神様との契約の中に入った。 と聞いて、十字架の上のイエス様を思い出した。父なる神様は可愛いひとり子のイエス様を罪人であった私のために捧げてくださった。イエス様はご自身が生贄となってくださった。 私自身は何も捧げることなく神様との契約の中に入ることができた。 礼拝の中で暗唱聖句「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」(1ヨハネ3:18)を読みながら、「行いと真実の愛」を完璧にされたのはイエス様しかいないと思った。
最近牧師夫人から”清さ”について教えがあり、世の中での清さを例に出されていた。それを聞いて、どれくらい清ければ良いのか?とずっと考えていた。 十字架の上のイエス様を思い出した時に、私は世の中を基準にして考えていたことに気づいた。 イエス様の「行いと真実の愛」によって救われた私はイエス様を基準にして生きるようにされているのだと改めて気づけてよかった。
(婦人)

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