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9月, 2020の投稿を表示しています

エゼキエル書の学びより ”新しい歩みができるように変えられて”

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聖書箇所:エゼキエル書11章  『イエス様が十字架にかかり、私たちの罪の身代わりとして死んで、3日目によみがえり、イエス様を心に主として受け入れたクリスチャンたちに「聖霊(霊なる神様)」を送ってくださったことによって、罪が赦された私たちに新しい良心(霊)を与えられ、霊によって歩むことが可能になった。(但し、すべてのクリスチャンが霊によって歩んでいるか?は別の話)』このことは知識としては持っていたけれども、それまで律法に従って歩んでいたユダヤ人にとって、それがどういう意味か?イエス様が律法を終わらせた(完成された)というのがどういう意味か?について、今日のメッセージからさらに深く学ぶことができた。  エゼキエル11章19節「わたしは彼らに一つの心を与える、すなわち、わたしはあなた方のうちに新しい霊を与える」イエス・キリストを通して成されたことが、既に旧約聖書に書かれていることは知っていた。けれどそのあとに、律法の書である申命記にも、そのことが既に預言されていたことを知って驚いた。申命記30章6節「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる」そのような新しい歩みができるように、私達を変えてくださるのは「神様」だということを改めて知った。これまで自分の努力で生きてきて、うまくいかず失敗して、神様を求めてイエス様を受け入れ救われ、そのあとまた自分の努力で律法を守って生きようとする人間の姿を、神様はどれだけ忍耐して見ておられるだろう。  「自分の力では無理です!神様、私を変えてください!」こうやって心を神様に開放して、神様が私の心を変えてくださるように祈ればいいんだ、ということがわかった。メッセージを聞いた後、とても心が軽くなった。自分の肉の力で目標を達成しようとしてる間は、結局自分にはできないことが心のどこかでわかっているから、不安や恐れがある。けれど、神様に委ねて、神様がそれをやってくださるとわかると心に平安と喜びがくる。自分の中にはまだまだ汚れた考えがあるし、神様の清さにはほど遠いけど、神様が自分を変えてくださるから、私は喜んで神様の訓練をこれからも受けていきたい。ハレルヤ!

”世と妥協しない生き方” 聖日礼拝から学んだこと

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20200920 実践的クリスチャン生活 No.6 聖書箇所:マルコ3:34-35  クリスチャンになって「世と妥協する」ことが何故よくないのか、ダヴァール教会に通い始めてから、御言葉を通じて、また体験(失敗)を通じて学んできた。そもそも「妥協する」ことは、世の中で “時には良い事” とされている(とりあえず落とし所を見つけて仲を取り持つ、といった態度)ので、聖書にはその「中間」が全くない(例えば、天国にいくか地獄にいくかの二通りしかなく、その真ん中がない)のが、初めは不思議だった。今日のメッセージからは、イエス様が一歩も妥協することがなかった姿を「家族を捨てる」という態度を通じて学んだ。「イエスは気が狂っている、サタンに取り憑かれている」と悪い噂話を流す人々が出てきて、それに動揺した家族がイエスを家に連れ戻しに来た時に、イエス様が取られた毅然とした態度から、イエス様の真っ直ぐな偽りのない生き方を見ることができた。神のあり方を捨てて人間となり、人類の罪を取り除きサタンに勝利するために生まれてきた神の子であるイエス様が歩まれた人生は、真剣そのものだった。  この「世と妥協しない生き方」については、他にも旧約聖書の創世記から、アブラハムとロトの違いについて話された。アブラハムは目に見える地上ではなく天の都を霊の目で見て、神様に信頼した結果、家を捨て家族を捨てて(一人子のイサクも神様から言われた通り捧げた)、地上では寄留者として生きた。それに対してロトは、地上での短い人生、目先のことだけを考えて世と妥協し、荒地に住むよりも潤ったソドムとゴモラの町(実際は、悪がびこった町で、神様に裁かれ滅ぼされてしまう)を選んで、かろうじて命は助かったけれども、地上での平安もなければ、結局はすべての財産も失い、霊的な祝福も失った。牧師家族からはよく、「聖書の登場人物から、良い例ばかり自分ごととして考えるのではなく、悪い例から学ぶことが多いよ」と教えてもらっているので、このロトと自分を重ねて考えてみると、「まさに、自分はロトだ・・!」と発見することが多くあった。いつも楽な道を選んで、都合の良い時は神様の御心を求め、けれど日々の生活の中で御言葉を心から信じていない。ロトのように、聖書を読みながら「これはたわごとだ(現実的ではない)」と思っていないだろうか?  今日...

水曜聖書研究から ~エゼキエル11:1-17より~

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聖書箇所:エゼキエル11:1-17 バビロン捕囚の時代、まだエルサレムに残っていた長老たちについて、エゼキエルが見た幻(その後、本当に起きた出来事)。エゼキエルの身近にいた、尊敬する人々の心の中を、神様が覗き見られていた。そして、そのかたくなな、悔い改めない心のゆえに、神様が裁きを下された。エゼキエルのよく知っている、尊敬していたベナヤの子ペラテヤが死んだ。エゼキエルが驚きショックを受け、神様に叫んだ時、神様はペラテヤの心の中にあった秘密について、エゼキエルに打ち明けられた。彼が心の中で考えていたこと: 「(バビロン捕囚に連れられて行った民は、)主から遠く離れている。(神殿はエルサレムにある)この地は私たちの所有として与えられているのだ(11:15)」 捕囚の民を思いやるどころか、彼らを見下して裁き、しかも自分たちの偶像礼拝の罪については目を瞑り、残されたエルサレムの地を我がものにしようとする態度。しかも、神様の臨在は既に神殿から去られてのに(10:18,19)全く気付きもしない、汚れた生活態度。表向きは良い人だったからこそ、エゼキエルは神様にその人の本心を教えてもらって驚いた。 神様が私の心の中を覗き見られることは、クリスチャンとして生活しながらも、意識していないことが多い。ふと、自分の中にある否定的な考えや人を裁く心に気付き、ブレーキをかけて、反省するという日常の中で、心の中を覗いているのが神様だけではなく、エゼキエルのような預言者にも知られているということは、恥でしかない。また、ペラテヤたちが求めていた「自分の家を建てる(11:3)」という生活態度(=この地上が全てかのような、天に宝を積まない生き方)が、神様の御心ではないことを学んだ。 「(アブラハムは)堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたからです。〜はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。(ヘブル11:10~13)」 今日も、クリスチャンとして生きるべき「生き方」を学んだ中で、自分の心の中の汚れを悔い改め追い出すこと、また、地上のことに心を奪われずに、霊の世界に目を向けて、神様の臨在を求めて行くことの大切さを教えてもらい、感謝だった。心に示された汚れを悔い改め、また一歩神様に大きく近づいて前進したい。(婦人)

教会学校の学びから ~名古屋支部からのシェア~

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  メンバー:ヨセフ(仮名)、エステル(仮名) 聖書箇所:2列王記10:18-36 暗唱聖句:しかし主は動機をはかられる。箴言16:2 3人で祈って始めました。先週はどうだったかな?エステルは「アタリヤ」と言っていました。 エフーはユダの王アハズヤの身内の者たちをどうした?ヨセフ「殺しちゃった」ユダの王アハズヤは北と友好関係を結んでいた。 エステル「アハズヤじゃなくて(父親の)ヨシャパテだよ」 そうだね。でも偶像を拝んでいなかったし、神様を求めていたよね。だけど偶像拝んでいた北と仲良くなって、子供達同士を結婚させたらどうなっちゃった? 2人とも「悪くなった」と言いました。 ヨセフ「バアルを持ち込んだ」ユダにも広まっていった。 くびきの話を思い出して、ペンを使って話しました。エステル「暗闇、明るみ」(2コリント7:14のみことばを思い出して言いました) ヨシャパテは殺されそうになった。アハズヤはやられた。悪者と仲間になってはいけませんと神様は言われる。 エステル「(ペンを使って)ノー!」と繰り返していました。 イエス様のくびきは負いやすいと言われた。合わない人同士では真っ直ぐ一緒に歩けない。でもイエス様と共に歩むならまっすぐ行ける。聖日礼拝の時に教えられた事、私達はイエス様とくびきを負う者だということを改めて話しをしました。 次の話は・・・、ヨナダブ覚えてる?前の時どうだった? ヨセフ「エフーの友達」 エステルはエレミヤ35章を開こうとしました。エステル「いばら。私を王にしなさい」と前々回の話をし始めたので、よく覚えてるね、それじゃなくてレカブ人のことだよ。 エステル「わかった、ぶどう畑を作るな。」そうだったね。遊牧民だった。 ヨセフ「遊牧民は怖いよ。襲ってくるの?」 どうか分からんけど、自分たちを守らないといかんね。ヨナダブは神様を愛していた。守るためにはダビデのように戦い上手なのかな? エステル「挟み討ち?」 もう一度、前に戻って15節を読みました。メッセージと教材で教えられたように、ヨナダブはエフーが神様に選ばれてアハブの家を根絶やしにしていたことを知って、会いに来たのではないかと話ました。2人は会って、神様にあって心がまっすぐかどうか確認し、ヨナダブは、はい、手を貸しなさい。と言ったら、エフーがヨナダブを下から引き上げて一緒に戦車に乗って行った。 エス...

2020年9月13日_今週のみことばカード「自分の家庭をよく治め、十分な威厳をもって子どもを従わせている人です。―自分自 身の家庭を治めることを知らない人が、どうして神の教会の世話をすることができる でしょうー(1 テモテ 3:4-5) 」

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 <東京支部> <甲府支部>

日曜礼拝より ~牧師婦人からの助言の記憶~

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  20代の若い頃(今でもそうだが)、仕事の転職先を決めるとき、何か重要な決断をするとき、問題にぶつかったとき、人間関係に悩んだ時、伝道したい人がいるとき、、いつも牧師夫人にカウンセリングをお願いして、聖書のみことばを通じて神様のみこころを教えてもらっていた。その時によく、わたしが「How to(どうしたら良いか?)」を聞くと、牧師夫人は「How toではなく、もっと根底にある “生き方(どう生きたら良いか)” の話なんだよ」と何度も言われていたが、その時は意味が全然わかっていなかった。 今日の牧師先生のメッセージで、イエス様がご自分の家族を捨て、代わりに「神の御心を行う者がわたしの家族です」と宣言された箇所を読んだときに、人類の罪のいけにえとしてご自身を神様に捧げる覚悟を決められ、真剣に生きておられたイエス様の心が少しわかった気がした。イエスの母マリヤと兄弟たちが「イエスは気が狂ったのだ」という人々がいたので、イエス様を家に連れ戻しに来たときの話。もしここで、イエス様が家族を捨てず、自分のいのちを救おうと心を変えていたら、人類の救いの道は絶たれ、私たちは皆、当然受けるべき罪の結果(地獄)を受けることになっていた。 ダヴァール教会に来て以来ずっと、「もっと真剣に生きないと」と神様から語られてきた。その生き方の見本は、牧師家族が毎日示してくれて、たくさんの愛も注いできてくれた。わたしが一緒に “くびき”を負って歩むべき方はイエス様だ、ということを教えてくれた。人生を軽く考え、安易に未信者と一緒に ”くびき”を負い、世と仲間をやっていると、自分が落ち込み、イエス様のところに導くどころか一緒に穴に落ちてしまう。それも ”軽い生き方”をしているからそうなってしまう。わたしは、イエス様がご自身のいのちと引き換えに、代価を支払って買い戻してくれた自分の人生を、イエス様と一緒にくびきを負って歩んでいきたい。(婦人)

日曜礼拝より ~自分と神様の垂直な関係~

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  今回のメッセージで夫と妻の関係のことについて学びましたが、これを人間とイエス様の関係当てはめて、一致することの大切さについて学びました。イエス様が教会の頭であって、その体になる私はイエス様(みことば)に従って行動することが基本になることが分かりました。また、夫と妻の関係と同様に、神様の愛するには忠実でなければならなくて、つまり古い自分・世的な生き方を捨てなければなりません。自分と神様の垂直な関係について改めて考えさせれました。(婦人)

東京支部 教会学校、教材の学びから

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聖書箇所:II列王記 10:12-27   今日もたくさんの真理を学んだ中で、バアル(偶像)の信者に与えられた「祭服」のことが一番印象に残った。新しくイスラエルの王になったエフーとレカブ人ヨナダブが手を組み、偶像礼拝をイスラエルの国から撲滅するために、バアルの集会を催す装いをして信者を呼び集め、剣で打ち殺した話。その時に、バアルの信者の目印になったのが、身に付けた「祭服」だった。その「祭服」を着ていたかどうかが、生死の分かれ目になった。  これに似た話で、新約聖書のマタイによる福音書22章では、礼服を “身に付けていない” 人が裁かれた。 私たちからすると、服装は体の外側に身に付けるもので、人から一番よく目に付くもの。同じように、聖書に書かれている「服装」とは、神様から人間を見たときに一番よく目に付く「心の中」のことを指していることがわかった。普段の生活では人から見られているのは外側だけだから、なかなか自分の内側に意識が行かないけれど、神様の前では心の中の動機や汚れが丸見えで、隠し通せることは何一つない。その心に「何を着ているか?」が、自分の魂の生死の分かれ目だとしたら、普段からどんなに注意して生きていかなければならないだろう。しかも、すでにその心が罪や汚れでいっぱいだったら..?   そのあと、ゼカリヤ3章より、私と同じように「汚れた服」を着ていた大祭司ヨシュアの話が読まれた。ヨシュアは、汚れた服を着て主の御前に立っていて、その右手に彼を訴えようとして立っているサタンがいる。「もう服(心)は汚れてしまっているのは、神様の目からも明らかで、しかもサタンが証人として自分を訴え出ている、、絶体絶命、、!」その時に神様(のみ使い)は、「彼の汚れた服を脱がせよ」と命じ、「見よ。わたしは、あたなの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう」と宣言された。  これが、イエス・キリストがわたしのためにしてくださったことだ、、ということがわかった。私の罪の身代わりに十字架にかかり、その血潮でわたしの心を洗ってくれた。 「あなたは、これからは新しい服を着なさい」と、イエス様が新しい祭司服を差し出し、わたしに与えてくれたことが、どれだけの恵みなのかわかった。これからは「新しい服」を着て人生を歩み、わたしを訴え出るサタンに対しては、イエス様の十字架によってわたしが不義とされた...

東京支部 エゼキエル書の学びから 

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エゼキエル書10章15-20節  預言者エゼキエルが見た、ケルビムが神様の栄光を翼に載せて神殿から飛び去っていく幻。その時に、至聖所に置かれていた契約の箱も一緒に取り去られたことを学んだ。契約の箱の中には律法が入っていて、その代わりに「礎の石(イザヤ28:16)」が新しく据えられた。その石は、恵みの象徴で、イエス・キリストを指す。旧約時代の預言者たちが、このイエス・キリストの現れを予見していたことがわかった。  イエス・キリストを自分の救い主として信じて心に受け入れれば天国に入れる、、そうしてクリスチャンになったが、その時は神様からの恵みがどれだけ大きなものか、全然わかっていなかった。今日の礼拝でも読まれた、イザヤ28:18は恐ろしいことが書いてあると思った。「あなたがたの死との契約は解消され、よみ(地獄)との同盟は成り立たない」つまり、自分は死んでも地獄には行かない、大丈夫だ、という楽観的な考えが、実際にはそうならないことを言っている。生死(天国か地獄か)の分かれ目は、イエス様(恵み)を信じるかか否かということだけで決まると聖書は語っている。  神様の恵みについては、もし人間が律法(宗教や行い)を守り通せるのであれば、わざわざ神のひとり子であるイエス・キリストが罪人のためにご自身を生贄としていのちを捧げる必要はなかった。肉による生き方が、そうして与えられた神様の恵み、イエス・キリストの存在を否定するようなことだと気づいた。神様の一方的な哀れみ、恵みによって救われたのに、いつの間にか宗教家になって、恵みから漏れ、自分の力で一生懸命なんとかしようとする生き方(キリストの香りを放つどころか、肉の臭みを出す生き方)をしていた。  イエス様は、古い律法を終わらせ、自由な律法を与えてくれた。自分のやりたいことが、神様のみこころ。自分のやりたいことを心からやれば、神様が奇跡を起こしてくださる。神様に導かれて歩むことで、そういう生き方ができることを学んだ。律法とは正反対の自由な生き方。クリスチャンになってからもサタンに騙され続けていて、せっかく神様が与えてくれた恵みも、約束の聖霊様も100%受け取れていないことに気づいた。みことばの真理をもっともっと心に受け入れ、心の奥底から喜びがある歩みをしていきたい。

甲府支部 収穫者会の学びから

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テモテの生き方がパウロの生き方を人々に思い起こさせてくれたように、私にとって、牧師一家の生き方があったことのないイエス様、弟子達の生き方を知る助けとなっている。 聖書を読みながら、ああこういうことをいってるんだと理解できる。 同じように、生き方で神様を現していきたいと思った。  (婦人)  パウロとテモテはいつも一緒に行動し伝道していた。 教会内でも同じで、執事と婦人執事がともに働いた。 私たちの教会でもみんなで同じ方向をみて、行っていきたいと思った。 そして基本である家庭でもバラバラにならず、お互いに話をし理解をしながら、 家庭を構築して行きたいと思った。 (婦人)

実践的クリスチャン生活

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20200906 実践的クリスチャン生活 No.4  最近の聖日礼拝は、「実践的クリスチャン生活」というテーマで、教会で学んだ聖書のみことばを実際に普段の生活の中で行うことの大切さ、について教えられている。  今週はもっぱらイエス様が語られた「なぜ、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。(ルカ6:46)」というみことばが頭の中にずっとあった。その中で、今日の礼拝メッセージでは、Iテモテ3章より、「(教会の中の)監督の職」の資格について、「みことばを守る=行うこと(9節)」であること、また、イエス様が弟子達に教えられた「監督(または仕える人、Decon)」とは、「人に仕える者(マタイ20:26)」であり、まさにイエス様は、十字架につけられる前夜、ゲッセマネの祈りの中でご自身のいのちを「自分のためではなく、人(私たち)のために捧げる」という決断をなさったのだ、ということが解き明かされて、とても衝撃を受けた。  イエス様も私たちと同じように人間になられ、「自分のために生きる」という選択肢もあった中で、そのいのちを私たち罪人のために捨てる、という決断を成された時に、どれほどの犠牲を払われる覚悟を決められたのか。それに対して、本当に小さなどうでもいい人間の誇りや自己中心な考え方を捨てることができず、いつまでも偽善(教会で人に見せるために奉仕したり、職場でクリスチャンらしさを演じたり、宗教家をやったり)を行っている自分の汚れが示された。「多くのクリスチャンが、自分を捨てるという決断ができない」と牧師先生も語られていたように、本当に真剣にイエス様の心がわかるように求めて行かないと、一生自分は変わらないことがわかった。  また最後に、聖霊様の力は「他人のために求める人には、必ず与えられる」という真理も語られた。ありのままの自分を見つめ直し、イエス様の心が少しでもわかるように、また自己中心な生き方を捨てて、神様の役に立つ器にもっと成長していきたいと思った。

“あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。” -教会学校レポート(名古屋支部)-

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名古屋礼拝所より、子ども向け教会学校のレポートをシェアします。 メンバー: ヨセフ(仮名)エステル(仮名) 聖書箇所: 2列王記10:1-11 暗唱聖句: あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。(マタイ20章26節) 先週はエフーは何をした?と聞きました。 ヨセフ「ヨラムとアハズヤをやっつけた。」 エフーは油注がれて神様の預言が成就したね。 エステル「エリヤが教えたことが本当に起こった。」 10章を交互に読んでいきました。 サマリヤは首都で王宮があって、アハブの子供達が70人いました。エフーは長老や養育係に手紙を書いて、子供の中から王を決めなさいと言いました。 4節・・・そしたら彼らは怖がった。どうしてかな? 2人はわからないと言いました。 2人の王たちって誰だった? ヨセフ「ヨラムとアハズヤ」 エステル「誰よりも優れてる」 彼らは「エフーは、イスラエルとユダの王を倒したのに勝てるわけがないし、私たちは戦うつもりはないです。何でも言うことを聞きます。」と言いました。 一方、エフーは「私の命令に従うなら70人の首を取って来るように。」と言いました。 8節・・・「70人の首を2つに分けて門の入口に置いておけ。」 ヨセフとエステル「やり過ぎ。」 どうして? エステル「神様が命じてないことをやったから」 ヨセフ「〇〇(ある独裁者)じゃああるまいし、やり過ぎ」 門の入口に置いたのは誰に見せてる?民だよね。 ヨセフ「私は王だ」 9・10節の、エフーが言ったことは正しい? ヨセフ「正しい。」 エリヤが言ったこと、神様が言われた事をエフーはやったね。エフーが言ったように民たちには罪はないかな?偶像拝んでいたかな? ヨセフ「北のことだから多分拝んでいたかも」 エステル「エフーは上から目線」 エフーは、長老や養育係を恐れさせて、彼らに殺させた。でも、エフーが油注がれた時はどうだった?皆の前で威張ってはやらなかった。自然と皆がエフー万歳と言って、将校たちは喜んでついて行ったね。 エステル「どこか変じゃないかな」 ヨセフ「権力を持つと悪いやつになっちゃう」 エステル「美味しいご馳走も食べれるし」 私は王様だ、言うこと聞きなさい。 ヨセフ「悪質だね」 エステル「最初喜んでいたのに」 エフーは神様に言われたことをやった。でも先週読んだところで、エフーは神様に言わ...