”世と妥協しない生き方” 聖日礼拝から学んだこと
20200920 実践的クリスチャン生活 No.6
聖書箇所:マルコ3:34-35
クリスチャンになって「世と妥協する」ことが何故よくないのか、ダヴァール教会に通い始めてから、御言葉を通じて、また体験(失敗)を通じて学んできた。そもそも「妥協する」ことは、世の中で “時には良い事” とされている(とりあえず落とし所を見つけて仲を取り持つ、といった態度)ので、聖書にはその「中間」が全くない(例えば、天国にいくか地獄にいくかの二通りしかなく、その真ん中がない)のが、初めは不思議だった。今日のメッセージからは、イエス様が一歩も妥協することがなかった姿を「家族を捨てる」という態度を通じて学んだ。「イエスは気が狂っている、サタンに取り憑かれている」と悪い噂話を流す人々が出てきて、それに動揺した家族がイエスを家に連れ戻しに来た時に、イエス様が取られた毅然とした態度から、イエス様の真っ直ぐな偽りのない生き方を見ることができた。神のあり方を捨てて人間となり、人類の罪を取り除きサタンに勝利するために生まれてきた神の子であるイエス様が歩まれた人生は、真剣そのものだった。
この「世と妥協しない生き方」については、他にも旧約聖書の創世記から、アブラハムとロトの違いについて話された。アブラハムは目に見える地上ではなく天の都を霊の目で見て、神様に信頼した結果、家を捨て家族を捨てて(一人子のイサクも神様から言われた通り捧げた)、地上では寄留者として生きた。それに対してロトは、地上での短い人生、目先のことだけを考えて世と妥協し、荒地に住むよりも潤ったソドムとゴモラの町(実際は、悪がびこった町で、神様に裁かれ滅ぼされてしまう)を選んで、かろうじて命は助かったけれども、地上での平安もなければ、結局はすべての財産も失い、霊的な祝福も失った。牧師家族からはよく、「聖書の登場人物から、良い例ばかり自分ごととして考えるのではなく、悪い例から学ぶことが多いよ」と教えてもらっているので、このロトと自分を重ねて考えてみると、「まさに、自分はロトだ・・!」と発見することが多くあった。いつも楽な道を選んで、都合の良い時は神様の御心を求め、けれど日々の生活の中で御言葉を心から信じていない。ロトのように、聖書を読みながら「これはたわごとだ(現実的ではない)」と思っていないだろうか?
今日は「家族を捨てる」ということが中心に話されたけれど、他にも私が捨てるべきことが沢山あるな、ということがわかった。例えば、仕事での成功、世の中の名誉、人から褒められることを求める心。まさにサタンが自分でも言ってるように「(私を拝むなら)この国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです(ルカ4:6)」ということばに騙され、世と妥協することで、神様の御心をやっていない自分に気がついた。この世は人間が罪を犯してからサタンに支配権を奪われ、「サタンの国」になってしまったのに対して、イエス様はこの地上に「神の国(良き神様、愛なる神様の御心が行われる霊の国)」を建てあげるために、人間となってこの地上に来てくださった。私はそのイエス様を心に受け入れた弟子(クリスチャン)として、もっともっと訓練を受け入れて、ロトのようではなくアブラハムのように歩んでいきたいと思った。
(婦人)