〈礼拝後のリフレクション〉
(Aさん)
アブラハムは空想の登場人物ではなく、生身の人間であり、カナンで飢饉が起きたときに、動揺したに違いない。その時に、「アブラハムよ、大丈夫だ。」と神様の肉声が聞こえたわけではなく、自分が神様から見放されたように感じたかもしれない。私の生活においても、神様が私の問題などを関知せず、見放しているように感じることもあるかもしれないが、ヘブル12章やガラテヤ3章にあるように、神様から訓練を受け、神様とともに歩んだ、聖書に出てくる多くの証人たちに私たちは取り囲まれているので、自分もアブラハムの子孫として、アブラハムに起きたことを自分に当てはめる。神様は私の味方。もしもアブラハムの願いが何でも即座に叶えられたら、彼は神様の深い側面と交わることはできなかったと同様に、今私に起きていることも、神様をよく知るための機会であると受け取る。
また、マタイ7章にある、「求めなさい。そうすれば与えられます。」ということばは、良いものの出どころは神様だけであるということが前提にあることをメッセージで言われていた。サタンがエヴァをだました考え・・・神以外からも良いものは来るとの考え・・・に気を付け、唯一の祝福の源は神様であるとの単純な真理を忘れずにいたい。
(Bさん)
神様がアブラハムに、カナンの地に行くように言われてから神様の訓練が始まったことを、メッセージを通して教えてもらった。神様の言うことを聞いてカナンの地に行くが、その中で逆境が起きても、神様を信じて従い通すことが訓練だった。ロトに対してアブラハムがどう対応するかということもテストの内であり、自分がアブラハムだったら、彼のように対応したかなと思う。エジプトでも、神様の約束と反対に思われることが起き、それでも神様を信じることができた。見えるところ、環境に目を奪われると、心配が来る。神様に言われたことを信じていくことが大切であると受け取った。
(Cさん)
神様はアブラハムに「あなたは祝福となれ」と言われた。神様はアブラハムをその通りの者とされた。これは私自身にも適用できる。神様が私に「祝福となれ」と言われているので、たとえ問題が起きても、それがいのちにかかわることであっても、神様が責任を取ってくださる。私はその神様の約束を信じて生きていきたい。