5月11日の聖日礼拝後の様子です。
本日は、教会のお母さんである、婦人たちのために、ランチ前に、お祈りがありました。
教会メンバーのお母さん方に、聖書のことばのカードとお菓子を持ち帰っていただきました。
また、5月のKさんのお誕生日のお祝いに、メンバーからの寄せ書きカードとお菓子が贈られました。
〈 礼拝後のリフレクション 〉
(Aさん)
信仰とは、神様の力を信じることであって、自分の力を信じることではない。自分は関係ないのなら、何でもできる神様を喜ぶだけ。ルカ18章で、何の働きもない取税人は、高くされ、義と認められた。ヤーベのお名前は堅固なやぐらで、そこに走って行って高くされる。それはイエス様の名前であって、自分の身から出たものは何もない。神様はやってくれないとか、現実は厳しいとかという穢れた考えの中には、自分が、どん底である地獄から、100%恵みによって救われ、義とされ、高くされたという認識が欠如している。まだ、善悪の知識の実によって何とかなると思っている。
(Bさん)
ダヴァールのメッセージで深いところを教えてもらっている。エサウがイエス様のひな型というのがすごいと思った。エサウの衣を着せられたヤコブが祝福された。イエス様の犠牲に感銘を受けた。
(Cさん)
イエス様が、長子の権利を捨てて、王や神様の権利を捨てて、私たちに祝福を与えるために十字架で死なれた。これがどれだけすごいことか、受け取らないといけないと思った。自分が、神様に対して貪欲でありたい。遠慮せずに神様に求めていく。自分から出たものは何もなく、神様の一方的な恵みで、イエス様が私の毛衣(ヤコブが着たエサウの服)になってくだった。
(Dさん)
自分のこと、家族のことが色々あって、そのことばかりの願いがあった。しかし、神様の計画は大きくて、神様の思いは自分の思いよりも大きい。レベルが違う。神様の国を求めることができていない。自分のことばかりを気にしている。信仰がないといけない。信仰がないことは穢れになると聞いたので、信仰を持ちたい。
(Eさん)
創世記1章を読み、神様がこの世や人間を造り、私たちが生活できていることを知った。偉大な神様を改めて感じた。
(Fさん)
願いがあるから、生き方を考える。今日は何するかを考える。もしも願いがなかったら、自分は確実に怠け者になっていたと想像できる。今日の賛美にあったように、楽な道を選んで、砂の上に家を建てて、死んでいるかのように生きていくことになる。クリスチャンになって、願う方向も内容も変わってきた。願いも神様から与えられた。それがあるから日々やることが出てくる。願いが与えられていることに感謝した。