2025年3月30日聖日礼拝後の様子 名古屋礼拝所

聖日礼拝の後、礼拝のメッセージを聞いて教えられたことを分かち合う時間をもちました。

福岡支部とオンラインにつなげて、子供と大人に分かれてのリフレクションも行われました。

 

〈礼拝後のリフレクション〉

Aさん)

1列王記13章の預言者と(イザヤ書6章の)イザヤの共通点というのが、イザヤは、ウジヤ王のやっている行動を、預言者は、ヤロブアムの礼拝の仕方を見て、これは違うな、これでいいのかなと思っていたということ。そういう、心が痛み、心が傷つき、何か違うなと思うことについて、その話を聞きながら、私自身もクリスチャンになる前のことを思った。今でもそうだが、その時にはわからなかったが、社会になじめず、生きづらいと思うことや、また、家族の中で、両親の喧嘩を見ると、本当は家族は愛し合うはずだが、お互いを傷つけず、仲良くあってほしいが、そうでない現実に心を痛めていた。学校でも、見えるところでは心痛めていることがあった。自分も同じようにやってしまうことになっていた。今でも、私同様、自分の心を痛めている人たちがたくさん、周りに、世の中にいるので、その人たちが、このイエス様を通して、真理を聞いたときに、「これだ!」とそういう風に、ここ(教会)に来てそれがわかることができるように。トラクト配りを通してということもそうだが、周りにそういう人たち、「残されたもの」が神様はいると言っていて、そういう人たちが神様のもとに来ることを考えながら(礼拝のメッセージを)聞きました。

 

Bさん)

私が勤めている会社においても、昇給査定の時期になり、誰が秀出てるかとか、そういう話が会社内で出る。そういう中で、そのような人の栄誉とかではなく、自分はイエス様の十字架によって取り分けられたものとして、人に良く思われたいと思うのではなく、神様の栄光を求めていきたい。教会の奉仕も、人に良く思われたいという心からではなく、また、単に奉仕をやれば良いというのでなく、純粋に神様のためにやっていきたい。神様を見ていくことができることに感謝する。イエス様に贖われたこと感謝していきたい。

 

Cさん)

世の中に染まり、you tubeなどの見過ぎで洗脳されると、礼拝に出ても違和感を感じる。その違和感の原因は「神様はうそをついている」との考え。この世の流れは異常で、神様は、その上を越えて、御業をされる。その神様の、実際的な、力強い業の霊的現実を見ていきたい。1列王記13章の、「ああ、私の兄弟」や、イザヤ6章の「聖なる末」など、すべての帰着点はイエス様にあると教えられた。

 

 Dさん)

イエス様の十字架と血潮によって罪が赦されて、イエス様を通して光の方に行くことができた。自分の力、肉的な力で神様の栄光、光を表すのではないことを新しく学んだ。自分がイエス様の贖いによって救われたことを、もっと自分の中に受け止めていきたい。

 

Eさん)

コリント6:14で「不信者と、つり合わないくびきをともにしてはいけません。」とあるように、「光と闇」や「不法と正義」などのように分けられている事がよく理解できた。

 




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