2025年3月23日聖日礼拝後の様子 名古屋礼拝所

聖日礼拝の後、礼拝のメッセージを聞いて教えられたことを分かち合いました。 
福岡支部とオンラインにて、子供と大人に分かれてのリフレクションも行われました。 

 〈礼拝後のリフレクション〉 

 (Aさん)
 礼拝メッセージの中で、「何故礼拝するのか」という話が出た。何故礼拝しているのかと言えば、神様に礼拝することで、神様からの祝福与えられるから。…これは私が教会に来るようになった時に、教会の姉妹からも教えてもらっていた。しかし、今回のメッセージを聞いて、改めて、礼拝の必要性や意味が分かってよかった。1列王記13章の「年寄りの預言者」は、エルサレムから来た本物の「神の人」の話聞きたさに、彼を呼び戻して食事に招いたことを詳しく、メッセージの中で説明して下さったので、意味が分かった。彼はヤロブアムへの反抗心があり、また、自分の弟子である若い人たちにも、「神の人」の話を聞かせたいという強い思いあったが、「神の人」が死ぬことを承知で食事に招き、その結果、彼は祝福された。「神の人」(イエス様)の犠牲ゆえに「年寄りの預言者」(私)を祝福してくださる、そういう神様のしてくださることはすべて愛で、私はその愛の中にいることを忘れたくないし、それを知らない人にも、その神様の愛がどれほど素晴らしいものかを伝えていきたい。


 (Bさん) 
人が罪を犯したことで、神様と人をつなぐ接点の場所(祭壇)が壊れてしまって、人は、神様から離れた状態、神様と交わりがない状態になり、それによって世界に破壊が起きて、世界が荒れ地・不妊の女のような実を結ばない状態・呪われた土地になった。このことはこの世界についても当てはまるが、私自身についても同様のことが当てはまり、自分は破壊の中を生きていたなと振り返りながら祭壇についての話を聞きました。しかし、イエス様によって、全ての罪が赦され、神様と断たれた部分が清められ、清められたことによって神様との交わりが回復され、私もこのことにあずかる者になったというのを思い返しながら聞いていた。イザヤ6章でも、天には神の栄光があるが、この地上は神様の栄光がない状態になったと言っていて、その個所を通してそれを見ることができた。それがどういう状態かというと、人が自分の栄光を求め、自分のことばかり考え、いつも「自分」「自分」と言っている状態であり、神様の栄光がない状態。そういう状態になってしまった中で、私自身が神をほめたたえていけることが感謝だし、神様を称える生活がどんどん起きてくることを願っています。


 (Cさん) 
神様との接点は、本物の、唯一の祭壇以外にはないことを学んだ。そこには、イエスキリストが全焼のいけにえとなり、生身の体を焼かれた苦しみの焦げ跡が残っている。それは、私の罪がつけた焦げ跡。その祭壇以外には神様に近づく道がないということは、神様が私のひどい罪(イエス様を傷付けたこと)にも関わらず、その行いをしてしまった私を受け入れた上で、なお、「そこを通ってわたしの所に来い」と言われているということ。そこで私が神様に差し出せるものは何もない。自分がどこから救われたか、罪びとから救われたことを忘れない。それを思うとイエスキリストが喜びとなる。全面的な赦しに感謝します。自己義認や「良い子」になって神様に近づくのではない。


(Dさん)
 1列王記19章で、エリヤが、アハブに殺されずに残ったのは自分だけだと考えていた時、神様は「何を落ち込んでるんだ。わたしは、私の民、男子7000人を残してある。」と言われた。人間の考えの小ささと神様の考えの大きさの違いを思った。神様の計画の大きさは、果てしない。その大きな神様に、自分が個人的に知られているということ、イエス様は私個人のためにも十字架にかかって死んでくださったという事実はすごい奇跡であるということを受け取った。
 

 (Eさん)
 1列王記13章31節で、日本語で「そば」と訳してあることばは、言語で「エチェル」(一つになる)ということを聞いた。私はことばに関する仕事していて、興味を持った。聖書を日本語で読んでいるだけではわからないことがたくさんあって、礼拝に出て聞かないとそれはわからない。一つのことばにいろいろな意味があって、そこに真理が隠れていることを、今日もメッセージを通して分かった。








このブログの人気の投稿

2025年1月 鶴見家の教会

12/11 聖日礼拝 山梨支部