2025年3月16日聖日礼拝後の様子 名古屋礼拝所

聖日礼拝の後、礼拝のメッセージを聞いて教えられたことを分かち合いました。

福岡支部とオンラインにつなげて、子供と大人に分かれてのリフレクションも行われました。

〈礼拝後のリフレクション〉

Aさん 
イエス様といのちの交換をした。いのちを交換してもらえたということについて、また、より、自分の中で理解が深まった。人の罪を、生きている動物に与えてその動物が私の罪のためにいけにえになることも同じ。すべて神様の愛で成り立っている。本当に憐れみ深い方。私はイエス様の愛を知らずに生きていた。罪のために犠牲になるいけにえに対する哀れみや、イエス様がいのちを交換してくれた私たちへの哀れみ、これは絶対に忘れられないこと。これを忘れず、イエス様を知らない人に、こんなに愛のある方と伝えていきたい。

Bさん
イエス様の最後の晩餐の時に、弟子たちの罪がイエス様に移され、彼は自分から十字架に付けられた。1列王記13章の神の人も自分から進んで死んでいった。それはこの世の常識からすると考えられない。それで私は新しいいのちを与えられた。聖餐式を通して改めて教えられた。いつも感謝すること忘れてはいけない。 

Cさん
黙々と死に向かっていく1列王記13章の神の人のように、自分の死をおとなしく受け入れるイエス様の様子、また、あなた方と過越の食事をすることをどんなに望んでいたことかと言われたことから、イエス様のことを見ることができた。私にとって肉体的苦しみほど嫌なことはないのに、イエス様がそれを喜んで受けるとは理解できない。聖餐式の時に、イエス様の清いものが自分の中に入るだけではなく、同時に、自分の汚れがイエス様に移ったことを思い起こした。 

Dさん
1列王記13章で神の人が神様のことばに反したが御心をやったという話があった。私自身も、イエス様を信じる前には、罪が入って、御心を行うことできない者になっていた。それが例えば「互いに愛し合う」ということについても、愛し合わない自分の家族を見て悲しかったが、私も同じように、結局、愛し合ってほしいのに、両親、特に母に反抗したり、愛し合いたいのに出来なくなった。クリスチャンになった後でも、一見正しい行いに自分が固守しているようで、実際には神様がしてほしいことではないことをしていることがある。そういう罪びとになった私を贖って、イエス様の愛を知ることを通して神様の心を知って、それを行うことができる者としてくださった。愚かになった人間の救いを、この話から、それを思いながら聞きました。新しい歩みができるために、私の代わりに、私が本来死ぬところ、「神の人」が死んでくださった。愚かなままではいけないので、神様の喜ばれることをやっていきたい。
私たちは神様の心を心からすることができるようにされた。この世の中にあってそれが光となるということがわかる。イエス様と一体になっているんだったら、負けていられない。今週1週間、とても、月曜日が遠い昔かのような濃厚な1週間だった。ただただ毎日をこなすのに一生懸命で、なんと祈ったらよいか分からず、イエス様を呼ぶことしか出来なかったが、振り返ったらそれが力になっていた。それを感謝した。もっと心をこめて御心を行うことができるものとされた、光を放つものでありたい。 

Eさん
自分の感情優先だと、納得いかない場合に人を裁いたり、イライラすることなどがある。イエス様のしてくださったことや、列王記などのみことばを通して、自分のそれが、どれだけ神様の心に反していたかと気づき、今日、聖餐式を通して、神様の一方的な愛で罪深い自分が赦されたことに感謝し、イエス様の十字架に重要性に気づいた。

Fさん
ローマの12章1節についてで、私は教会の礼拝には参加しているが、神様に体をささげてるかな、礼拝のために時間を割いてはいるが、そのほかのことも割いて礼拝のために生きているかなと思った。礼拝中も他のこと考えたり、前日に夜更かししてしまったりすることがあり、礼拝に時間では参加していても、実際に自分は心と体を神様に捧げているかと自問した。 




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