2025年2月23日聖日礼拝後の様子 名古屋礼拝所
〈礼拝後のリフレクション〉
Aさん
礼拝をしなさいとか、愛しなさいとか、戒めとして言われてもわかりにくいが、神様の愛にとどまって行くことや、自分が神様に愛されていることを受け止めていくということならわかった。1列王記13章で、「神の人」が「年寄りの預言者」とともに食事をした結果死んだように、イエス様も、ご自分が死ぬとわかっていて、私と一緒に食事をしてくれた(十字架で死んでくださった)ということが、身近な食事という例を通してわかった。
Bさん
前回、ヤロブアムは自分を表しているとシェアしたが、1列王記13章の「年寄りの預言者」も自分を表していると思った。彼は嘘をついて「神の人」を騙した。両者とも、軽率な行動を取ることや、自分のことしか考えていないことが自分を表していると思った。
今日の礼拝メッセージでは、「神の人」が、それでも「年寄りの預言者」と一緒に食事をしたことを見た。イエス様が、そのような私であることを知っていながら十字架にかかって死んでくださった。それによって、私が神様との関係を持つことができた。そのことを感謝します。
Cさん
教会の指示でやっているのを変えることは汚れであるということを学んだ。
Dさん
ルカ10章の「良きサマリヤ人」に出てくる「半殺しにされた人」はイエス様を表していて、その隣人となることを神様は求めておられる。「イエス様の愛にとどまる」というヨハネの福音書のことばから、復活したイエス様がペテロに「私を愛しますか?」と3回聞いたことを思い出した。ペテロはイエス様を裏切り、イエス様の死と復活を体験して、大きな悔い改めをし、イエス様のそのことばから、自分が赦されたというイエス様の愛を知った。私ももっとそのことを個人的に知っていきたい。私も教会のメンバーも、自ら選んでイエス様のところに来たのではなく、イエス様が選んで集めてくださった。イエス様にあって愛し合うべき相手。
Eさん
ダビデがアブシャロムに追われた時に、彼は自らアブシャロムに裁きを下したり、自分を主張したりせず、ただ彼から逃亡し、自分を王として召してくださった神様に信頼していた。それに対して、ヤロブアムは、ダビデと同様に神様から召された王様であるにもかかわらず、自分を助けてくださる神様により頼まず、自国からの人口流出を恐れて金の子牛の像を拝ませることによって、人口流出を防ごうとした。その違いを見た。自分も、ヤロブアムのように、自分の自営業の仕事のことなどで、「果たしてこれで大丈夫だろうか」と不安を感じることがある。イエス様は、ヨハネの福音書の15章で、私が実を結ぶために私を選びを遣わしてくださっていると言われた。そのことばに信頼して、目の前の出来事に動揺しないように、そのことばの上に立っていきたい。
Fさん
ルカ10章で、律法学者がイエス様に、何をしたら永遠のいのちを得ることができるかと質問した。しかし彼は、永遠のいのちに入るための行いができていなかった。いくら人が神を愛そうと思ってもできないということを、裁きを受けたイスラエルの歴史が証明している。無理に神を愛そうと思ってもできないのなら、神様を知り、神様のことばが自分の中に入ることが大切。
Gさん
何をするにも動機が一番大切。神を愛するという動機、神に喜ばれたいという動機。どうしても自分優先になるので、何が神に喜ばれるかと都度考える必要がある。そうでないと「共におられる神様」ではなく「共におられない神」になる。
Hさん
ヤロブアムは、神様に選ばれたのに、神様を無視して、自分のために、自分のやりたいことをやった。私も「自分」が強く、自分のためにやっているところがある。まず神様のことを知り、神様のことをやる必要がある。