8月20日 礼拝の後のシェア 名古屋礼拝所
名古屋礼拝所で、礼拝の後、その日の礼拝で聴いた聖書のことばや、普段の生活のことをシェアしています。
(Aさん)
「世をも世にあるものをも、愛してはいけません。」とか、「世と調子を合わせてはいけません。」とか、「自分の悟りに頼るな。」という聖書のことばがあります。そのことばを聞いて、倫理的にいけないことだからやってはいけないんだと思っていたけど、今日のメッセージ(礼拝での説教)を聞いて、聖霊様の働きが弱くなって霊の世界に入れなくなってしまうからやってはいけない事なんだとわかりました。感謝です。
(Bさん)
本物を求めず偽物で心を満たそうとしてきた。
過去の自分も聖霊様や愛ではなくて、これを食べたら満足、こうしたらいいなと考えて自分を満たそうとしていたことを思い出した。
自分は偽物で自分を満たそうとしてたから、何かあったら落ちてしまっていた。反省しました。
イエス様が「私を打て」と言って水を与えてくれて感謝です。
(Cさん)
世の物を愛してはなりません。謙遜さと悔い改めが足りない。それがないと聖書のことばが、すっと入らない。ロサンゼルス本部の伝道ミーティングに浅井牧師先生が入ってやる。ロサンゼルス本部は動きだしている。神様からの水を求めているのに、偽物であってはいけない。浅井先生から本物を求めているのが伝わってくるので、謙遜に受け入れようと思いました。感謝でした。
(Dさん)
今回の聖書セミナーで、浅井先生に直接質問する機会があり、「伝道すべきである」という思いは肉であって何の益ももたらさないことを教えられた。メッセージは信者に伝道させるための手段だと無意識に誤って思っていた。ことばに裏や別の動機があるということ、これをみことばを読むときにも適用してしまっていた。これは、創世記3章で蛇がエバに、神様のことばには2面性があると言っていたことと同じ。そうではなく、みことばはまっすぐなものであることが分かった。そのまま受け入れていきたい。
(Eさん)
神様の栄光を考えていた。神様は、「わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。」と言われている。私は神様の栄光の為に作られた。
「この世と調子を合わせてはいけません」と聖書に書かれていることが、なんとなくわかってきて、私たちは神の子とされたから、それは当たり前のことだけど、それが神様の愛であると思い起された。賛美をしながら、神様をほめたたえて生きる事を求められている。それをする為、聖霊様が必要とわかった。神様に愛されていることを知っていきたい。
(Fさん)
日頃の自分を見て、ふと思った。私は、なまぬるい水を、ヤコブの水を飲んでいたことを反省した。神様からの聖霊様の水を飲んでいこうと思った。
なまぬるい水を飲んでいると世に巻き込まれていってしまう。
朝起きて部屋で祈る時、神様に教えてもらって歩む事ができるようにと思うけど、日曜日だけではなく、日頃からきよく生きたいと思った。感謝でした。
(Gさん)
先週のメッセージで、聖霊様による実と反対の悪い言葉のことが言われており、それが私にあった。
聖霊が与えられていることは頭でわかっていたけど、日頃を振り返ると、聖霊様で満たされている時もあるけど、5秒後にはサタンの器になってしまうことがある。だから、もっと餓え渇いてみことばを求める。それが足りないから、肉で求める事がある。
聖霊様は自分からもっともっと求めて、イエス様からの水を流していくことができる。
肉でやって流していることを聖霊様に満たされてやることに変える。
神様が与えて下さるもののすごさが、まだわかってないと思いました。
(Hさん)
浅井先生が最後に「神様に求めなさい。求めないのは生ぬるい。」
と言われた。私もそうだ、求めてなくてあきらめてしまうことがあると思った。
もっともっと神様に求めていこうと思いました。
(Iさん)
ロサンゼルス本部でキャンプに参加できて感謝です。
最初の聖日礼拝の日に、牧師夫人の言われたことが印象に残った。
配信で聞いているのとロサンゼルス本部に行くのと違うというのは、同じ神様のことばを聞いているのになぜと言われて、ロサンゼルス本部は霊の流れがあるからと思っていたけど、聞いている側の、自分自身の問題だと気づいた。
ピアノコンサートがあって、浅井先生ご家族の真剣さ、愛が実質となって流れているのを見て、自分の生き方とは違うと感じた。
みことばを受けてそれを自分だけに留めておきたくない。
今日のメッセージで、自分が中途半端に求めていることがわかって、もっともっと求めていこうと思った。求めていけばいいんだとわかって感謝でした。
(男性 M.T)