8月13日 礼拝の後のシェア 名古屋礼拝所

 



名古屋礼拝所で、礼拝の後、その日の礼拝で聴いた聖書のことばや、普段の生活のことをシェアしています。

 

 

(Aさん)DAVAR教会の聖書セミナーに行く前には、聖書のことばを軽視していた。セミナーに参加して、1つの聖書のことばの中に深い世界がある事を思った。ヨハネ4章の水はサマリヤの女に与えられたものとして傍観者として見ていたが、自分に与えられたとわかった。

 

(Bさん)「主が共にいる」。現実のものに捕らわれてしまい、霊的なものの渇き、不信仰、恐れが現実のものに来ている。「主が共におられる」と言うヨシャパテ。「出来事が起きてから信じること」は信仰ではないとパスターは言うが、まだ起きていないこと(聖書のことば)を信じる。信じることができないのは人の弱さ。今日のメッセージで、霊の世界を聖書のことばで学べて感謝。

 

(Cさん)礼拝を受けている時には神様がいる感じがして、家にいる時にはいない感じ。感じで神様がいるかいないかを判断。人の弱さ。自分も、感じで神様がいるいないを判断したことがあったし、自分の頭の中を切り替えていることがある。家でも、週の間、聖書を読んで聖書のことばを慕って、祈って聖霊様を求めることが足りなかった。それを改めたい。

 

(Dさん)出エジプト記17章で、岩を打てと神様は言った。生ける水を飲ませるために打てと言ったのが「自分を打ってこい」と神様が言ったことと同じ。消化できていないが、そうやって救われたこと、あらためて、それで神様が共にいる状態にしてもらって、生ける水を飲めるようにしてもらえてる。妻と2人で生活を振り返って、地上ばかりを心配して求めているとわかった。イエス様がそれを負って、天にあるもの、水を求めて生きていけるように変えてくれて、打たれてくれたので感謝。「打て」ということがそれにつながっていることが分かってよかった。

 

(Eさん)神様の霊が流れて御霊の実がなる。神様の霊がなければ・・・。救われる前のことを思い出した。苦しかった。求めていた。神様のところに帰って祝福されて、元の自分、苦しかったころを忘れて、感謝がなくなったことを感じた。以前は御霊の実もなかった、今は御霊の実が自分にも与えられている。イエス様を知らない人に、ただ与えるだけで良いと思っていたが、本当に必要なものは霊の実である。余分なことをしてきた。本当に必要なのは神様の霊。

 

(Fさん)聖書のみことばを軽く取っていた。分かっていなかった。自分は世的。自分の考え。神様の考えではない。地上のことばかり考えていたことを教えられた。人の誉れ。神様の栄光ではなく。サタンが持ってきたもの、地上の環境に心を奪われていた。イスラエルが海を渡る前の不満の態度の名残がある。先週印象に残ったメッセージは、「世のことを考えたりしていると、心配思い煩いが来て十字架が使えない。いくら祈っても信仰がなかったり、神様の栄光を求めていなかったら奇跡が行われにくい。」そのためには、神様をもっと求めていきたい。

 

(Gさん)ヤコブの井戸の水は飲んでもまた渇く。イエス様の与える水は渇かない。人の掘った井戸は渇く。神の井戸は潤っている。神様の霊について、あらためて教えられて良かった。10年くらい前の、以前通っていた教会を思い出した。そこの教会員の人が「自分の10年後はどうしたいか。」と言い、私は「10年後には信仰を深めたい」と言った。この教会に来てから、それまで知らなかったことを深く教えていただいた。それまで聖霊様について知らなかった。イエス様の十字架によって聖霊様を送っていただいたことを初めて知った。ありがたいこと。今日もつくづく思い起こした。

 

(Hさん)聖書セミナーで学んだことは、一番は、神様は、私たちを通して新しいことをされるということ。聖書セミナー前は、自分の経験してきたこと、自分の考え、今までこうしてきたということに捕らわれて行動してきたことが分かった。神様はそうではなく、創造の神様。イスラエルが味わったのも、創造。私たちを通して新しい事をしてくださることが分かった。神様は一緒に居ない気がする、神様はこの約束を守ってくださるだろうかという、自分の中から考えだした考え方は不信仰。アブラハムが星を見て信じたように、霊的現実が大切と、今日のメッセージから改めて思った。新しいことをされる神様に期待していきたい。

 

(Iさん)イスラエルの民が、神様はおられるか、おられないかとつぶやいたこと、弟子達も同じ事をしていたことを教えられた。キャンプ2で、山に登り、しんどく、いつまで歩くのだろうかと思った。自分との戦いだった。「黙っていなさい。」と言われているようだった。環境で苦しいことが起こるとすぐにつぶやく、人間は弱いと思った。イスラエルの民と同じ。イスラエルはすごい奇跡を見たが、今回の山登りよりももっとすごい荒野を歩いていた。あと、ホレブの岩を打ったこと。キャンプ2でパスターご家族が子供たちにご褒美でビデオを見せてくれた。当時のエジプト軍の戦車の車輪やホレブの岩も出てきた。映像を通して、神様は半端ないな、神様がやったんだ、すごいなと思った。全世界の人が飲めるくらいの水があふれた。神様はすごいなと思った。御霊の実、永遠のいのちの事を漠然と受けとっていた。実質あるもの、それが御霊の実であると教えられた。そういうのが流れて行く霊的現実。霊的現実でもっと見ていくようになりたい。

 

 

 

 

教会でのランチの後、お盆の最中には息子さんは帰ってこられましたかと、AさんがJさんに聞いたところ、帰ってきていないとのことでした。息子さんの就職に関して心配し、同じ職場にずっと安定して勤めてほしいと思うが、それについては祈ればよいかといったような質問をされました。

 

詩篇3723 人の歩みは主によって確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。

 

24 その人は倒れてもまっさかさまに倒されはしない。主がその手をささえておられるからだ。

 

詩篇3410 若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。

 

をJさんの紙に書きました。

 

私は、Jさんは神の子なので、神は子供に良くする。Jさんのお子さんにも、同様に良くすると言いました。Jさんは少し笑顔で、そうですかと言われました。


(男性 Y.N)




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