8/29教会学校より 福岡支部
賛美のあと、祈ってはじめました。
信仰についてもっと深く学んで行く。
信仰は使うもの、奇跡が起きる道具となる。みことばの言っている意味を知って、そうか!と、わかるとき信仰になる。だから、みことばが分かる、悟ると聖書では書いているが、これがとても大事。
詩編130:119を読みました。
みことばが心の中に入るということは、週報の図を使って、霊からたましいを貫いてたましいの中に入っていくこと。
人間は霊とたましいと体で成り立っているということだけど、聖書のどこに書かれているか知っている?
と確認すると「知らない」と言うことだったので、創世記2:7を読んで確認しました。
どれがどの部分にあたるかがソロモンとダビデは「わからない」と言っていたので、アブラハムとエステルに教えてもらいました。アブラハムとエステルも「たましいの部分がどこにあたるかがわからない」ということでした。”生きもの”がたましいにあたると話しました。
「へー、それ?そうなの?生きもの?」と子供たちは言っていました。 マタイ13:3-23を子供たちに順番に読んでもらいました。 3-9節まで読んで、種はどこに落ちたかを確認しました。
子供たちは「道ばた、岩地、いばらの中、良い地」と答えました。
その中で実を結んだのはどの地?と確認すると、「良い地」だと言っていました。
たとえ話ということで、種と地はそれぞれ何をたとえているか?と聞くと、アブラハムは「地が心」、種は?と聞くとみんなすぐには分からない様子でした。
エステルが、「みことば?」と言って答えていました。
同じみことばを聞いても実を結ぶ、願っていることが実現したのは良い地だけ。他は何もなかった。なぜかな?と話して、続けて、最後まで読みました。 それぞれの地について、どういう状態かをCSガイドとメッセージで学んだことを話しました。
岩地については軽さであることをみことば聞いてすぐアーメンと言って家に帰ると全部忘れていると話すと、アブラハムは笑っていまして、そしてノートに書いていました(後で見ると、「岩地に落ちるとは単純ってこと」と書いていました)。
いばらはこの世の心遣いや富の惑わしのせいでそれがおおいとなって、邪魔している。ということなどを話していきました。 種がまかれたと言うのは、みことばを聞くことで、いまやっているように教会学校でみことばを聞いて学んでいるみんなのことに当てはまる。
聞いた人みんな実を結ぶことできるか?と聞くと、
「違う」と首を振ってこたえていました。
聞いているだけで自動的に信じることができて実を結ぶと言うことではないということだね。良い地以外、他は全部実を結ばない結果となるんだね。種が悪いのではなく、聞く側にかかっているということだね。
みんなたくさん実を結びたい?と聞くと、
「結びたい!」と手を挙げていました。
最後に週報の図を見ながら、霊の目と耳を開いて神様から学んで行こうと言って終わりました。 暗唱聖句を読みました。
そして、学んだことの感想をそれぞれノートに書いて、そのあと書いたことを言ってもらいました。
子供たちの感想ダビデ:たとえ話が分かりやすかった。