礼拝メッセージ「恵みとまこと」より気付かされたこと
霊的には真理に属する者とされていて、自分でもそういう者と思っていたが、その深い意味を全然行なっていなかった。昨日の大人のCSのメッセージから繋がって、神の器から(パスターやまさみ先生から)の忠告や教えに対して、いつもこれはできている、これはできていないと自分で決めていた。自分でできていると決めることは、動機に自分のため、自分を誇ろうとする心があったからと気づいた。だから結局は行なっていないことと同じだと思った。ひとり子を罪人のために送ってくださった神様から見れば、何にも誇れる者ではないことがわかってよかった。
(婦人)
メッセージの中で、ローマ5章「イエス様のように悪い者の為に死ねますか?」と語られた時に、無理だと思った。自分は罪を赦されて救われたにも関わらず、悪い人と思えるこの人はどうですか?と訴えていたことを思い出し心刺されて涙がこみ上げてきた。イエス様は全ての人のために死なれ、愛を明らかにされて、模範となってくださった。
弟子たちはイエス様を愛すると言ったのに裏切ったように、自分のために人を愛せないのは偽りとわかりました。
ヤコブ2:13「あわれみは裁きに向かって勝ち誇る」と教えられ、恵みの下で生きていたいです。
(婦人)
恵みの大きさに感謝します。神様の大きな愛(恵)イエス様の十字架と復活を真剣に考え、教えられ、他の人の為に行う。
正しく生きつづけ恵を流すのに選ばれた(みことばできよめつづけられていることに感謝します)
ヨハネの所から真理に属する生き方で神のことばに従う「互いに愛し合う」心から真実をもってする、かたちだけの私ではないか?と考え反省した。ヨハネ13:35「互いの間に愛が」あるなら、それによってイエス様の弟子であることをすべての人が認める」このみことばがはいった。17章のイエス様の祈りに(考えられない大きな恵)感謝します。
(婦人)
ヨラム王は偶像礼拝をしていて神様に裁かれるという結果に終わってもよかったのに、それでも救われたというのが自分も同じだと思った。
(男性)