収穫者会礼拝メッセージからの支部間シェア
ヨハネ6章のメッセージよりグループシェアの内容です。 Mさん(女性) 「霊的現実」の事を今日改めて学び、それ以外の現実は、意味がないとわかります。「神の印が押されてる」と言うのは、私の名前は命の本に書かれています。その事実は絶対変わらないことです。ところが、いくらそれが現実であっても、私は本当にそれを受け入れてるか?自分の行動を見ると、足りない所がある、とわかります。 Yさん (男性) 昔は、私がたくさん暗唱成句の暗記をしました(一節くらいだけじゃなく、新約の長い箇所も暗記した)。他のあるクリスチャン達も、ある意味趣味として、「みことばの暗記」もしてます。ところが、いくら、「あの言葉、この言葉がこの、あの書物に書いてある」と知ってても、なぜ喜びが少ない?その言葉が働いていないことも発見した。みことばが凄い力、喜びをもたらすべきけものけど、私に足りないのは、瞑想することだ、と今日わかったのです。 Eさん (女性) 「瞑想する事」に関しては、最近職場で、昼休みの時にみことばを読んでますが、「みことばを食べてる」よりも「単に勉強」の時もあります。Davar でいつも学んでるように、みことばを個人レベルまで適用しないと、意味がない、とわかりました。 Hさん (女性) ヨハネ10:10は、今日の自分にとって一つの大きなみことばでした。私は、普段の礼拝最中、信仰持ってる、信仰が高まってきてるであっても、通常生活の毎日で、それの状態とのギャップも発見する。その私の周りの時環境だけ見ると、死だけがきます。周りの人は、サタンの影響によって、死の言葉によって死んでることがわかってます。だけど、その逆で、一つのみことばが心に入ったら、死から命に移されていきます。 Dさん (男性) 今日、「イエス様の肉を食べる」、その意味がさらに深くなりました。いくら前これを学んだ事であっても、みことば=一番大事な毎日の食物、と言うことを改めて今日わかった。無意識で普通の肉のご飯をいつも食べてるけど、たった1日だけでも霊的なご飯を食べない場合だったら、どんな悪い、ソンになること、先週の1日でそれを実際体験しました。そうならないように、いつも霊的な食べ物を今までよりもっと大切にしていきます。