“心の中におられる神様” 福岡支部の教会学校レポート
教会学校レポート 日付5月23日 聖書箇所:Ⅱ列王記21:19-26 暗唱聖句:この天地は滅びます(マタイ24:35) 賛美:神に選ばれた者 参加メンバー:Aちゃん、Bくん、Cくん >Eくんは家の用事ということでお休みしました。 賛美して祈ってはじめました。 聖書箇所( Ⅱ列王記21:19-26) を1節ずつ、子供たちが順番に読んでいきました。 読み終わって、すぐに「(アモン王の統治は)2年間だけ?短いね。」と言っていました。 メッセージで学んだように、見えるところは変わったけど、ヤーベの神様を礼拝していたのにすぐまた変わって偶像礼拝ができてしまうのは、見えない部分である「心」が変わっていなかったから、ということを話しました。ヤーベの神様を礼拝しながらも実は心ではアシェラ像など偶像を慕う心があるままでいたということ。 エレミヤ17:1~を読み、小さいころから慣れしたんだ祭りや食べ物などの習慣が染み付いてしまっているように、罪がこころの板に刻まれていると書いている。刻まれてしまうと簡単に消すことができない。好きなことになってしまっているから、やめられない。民たちがこのように偶像に親しんでいる状態だったから、心からヤーベの神様を礼拝していなくて、形だけ、見せかけのものになってしまった。神様はどこにおられるかな?と聞くと、Cくんが「心」と言っていました。心は見えない部分だけどそれを無視して見える物ばかり追い求めると、神様のこころを考えることもしない、人の心を考えることもしないで自分のことばかりになる。 テキストに書いているようにいい点数をとろうとすることばかりにいっしょうけんめいになることやかわいい服をきること、外見をよくすることにいっしょうけんめいになっているのではなくて、見えない心に価値があることを伝えました。Cくんが「いい点数」と言うところに反応して「あっお兄ちゃん」と言いながらBくんを見ていました。Bくんは少し怒ってしまいました。例としてマタイ6:1~を読んで、人見せるため、ほめられるためにやるのも見えない神様のことを考えていない、見えるところを重要としている態度だよと話しました。Cくんは「ぼくは人に見られなくてもしていることがある」と言っていました。Bくんが「それはなに?」と聞くと、「お米をあらってご飯の準備をしている」とのことでした。Ⅱコリント4...